生きるとは何か - No.2

身体は無常の流れ

2019年4月1日発行

日常、私達が見ている世界にあるものは、実際に在る物(実相、物質)として認識しています。山や川など姿、形は変わっても過去から未来まで存在すると思っています。我々人間を含めて身の回りの動物や植物など、存在するものは絶えず変化していることは分かっているが、この私という実体は変わらずあると感じます。仏教が教える基本に「諸行無常」「諸法無我」との言葉がありますが、これはあらゆるものは変化して常なるものは無いく、私という実体も無いとの教えです。生活している毎日の時間感覚(何分、何時間、何日)や物を見る大きさの視点ではその変化は実感できません。

病気になったり、親しくしている人が亡くなったりすると変化を感じ、生きていることは有限なのだと身に沁みるものです。2月末のニュージーランドの地震で多くの日本人も犠牲になりました。前途をしっかり見据えて語学研修をしていた有望な若者の命が突然の災害に見舞われ亡くなっています。人間の善悪などの価値観や思惑には一切関係なく、死はいつやって来るか分からないことを教えています。わが身に置き換えて今生きていることの有難さを知って、今、何をなすべきかを問うてみたいものです。道元に「生を明らめて死を明らめるは仏家一大事の因縁なり」との言葉があります。僧侶だけでなく在家の我々にとっても大事なことです。生きているとは、常に死と背中合わせの一つのものです。

今月はミクロな視点で生きている我々の人体内部の営みを見てみます。人の体に60兆個あるといわれる細胞は秒単位で絶え間なく変化し、分解(死)と再生が繰り返されています。生きているとはなんと繊細で精巧な営みにより保持されているものだと理解できると思います。

 生きている身体は行く川の流れ

方丈記に「行く川のながれは絶えずしてしかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結び、久しくとどまることなし」とあります。方丈記は人生のはかない生死流転の様相を表現していますが、ミクロな原子・分子レベルで人体の内部を見るとこの書き出しの言葉は、生きている身体の営みに、ピッタリと当てはまり驚かされます。

20世紀になって生物学が著しく進歩して、特に分子生物学が分子レベルで生命現象を研究することで身体の中の物質の流れが明らかになりました。このことを理解するための良い書物が見つかりました。最近、よく新聞やテレビで見かける分子生物学者の福岡真一著「動的平衡:生命はなぜそこに宿るか」に分かりやすく書かれています。関連する部分を抜粋してみます。

  • 私たちの身体は、たとえどんな細部であっても、それを構成するものは元をたどると食物に由来する元素なのだ。
  • 私たちが食物として口に入れるものは、肉にしろ、穀物にしろ、果物にしろ、すべて元はといえば他の生物の身体の一部であったものだ。なぜ、私たちは他の生命を奪ってまで、タンパク質を摂り続けなければならないのだろうか。
  • タンパク質とは、アミノ酸がいくつも連結した高分子化合物である。生体を構成するアミノ酸は20種あり、その組み合わせが「情報」(タンパク質の構造)となる。
  • 生命体は口に入れた食物をいったん粉々に分解することによって、そこに内包されていた他者の情報を解体する。これが消化である。タンパク質は消化酵素によって、その構成単位のアミノ酸にまで分解されてから吸収される。

取り入れた物質をいったん最小単位のアミノ酸までに分解するのは、他者の情報を消すためであり、自分の身体に会ったタンパク質を新たに生成する作業をしていることに驚きました。

  • 消化管の内部は、一般的には「体内」と言われているが、生物学的には体内でない。つまり体外である。人間の消化管は、口、食道、胃、小腸、大腸、肛門と連なって、身体の中を通っているが、空間的には外部と繋がっている。それはチクワの穴のようなもの、つまり身体の中心を突き抜ける中空の管である。
  • いつから食べ物は「体内に入った」ことになるか、それは、消化管内で消化され、低分子化された栄養素が消化管壁を透過して体内の血液中に入ったときである。
  • タンパク質はアミノ酸にまで分解され、アミノ酸だけが特別な輸送機構によって消化管壁を通過し、初めて「体内」に入る。体内に入ったアミノ酸は血液に乗って全身の細胞に運ばれる。そして細胞内に取り込まれて新たなタンパク質に再合成され、新たな情報=意味をつむぎだす。

口から胃の中に流し込んだだけではまだ体外であり、腸の消化管壁を透過して血液中に入った時から身体作りに役立っていることなど全く知りませんでした。

  • 新たなタンパク質の合成がある一方で、細胞は自分自身のタンパク質を常に分解して捨て去っている。なぜ合成と分解を同時に行っているか? それは合成と分解との平衡状態を保つことによってのみ、生命は環境に適応するように自分自身の状態を調節することができる。これはまさに「生きている」ということと同義語である。
  • 生命は行く川のごとく流れの中にあり、私たちが食べ続けなければならない理由は、この流れを止めないためなのだ。この分子の流れが、流れながらも全体として秩序を維持するため、相互に関係性を保っているということだ。
  • 個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし、ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度がたかまっている分子がゆるい「淀み」でしかないのである。私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜ける」という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が「通り抜ける」べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。生命とは動的な平衡状態にあるシステムである。
  • 私たちにできることはごく限られている。生命現象がその本来の仕組みを滞りなく発揮できるように、十分なエネルギーと栄養を摂り(秩序を壊しつつ再構築するのに細胞は多大なエネルギーと栄養を必要とする)、持続性を阻害するような人為的な因子やストレスをできるだけ避けることである。
  • 生命が「流れ」であり、私たちの身体がその「流れの淀み」であるなら、環境は生命を取り巻いているのではない。生命は環境の一部、あるいは環境そのものである。

私にとっては全てが新たな知識であり、知ることの大切さを思いました。仏教の教えもこれらの事を知ることによって理解が深まる感じがします。

非常に示唆に富んだ知見です。現代の分子生物学が明らかにした知識で、哲明和尚がよく説法していた「無常」や「現象」の意味を頷けると思いませんか。

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コメント

  1. 高橋 より:

    新しいパソコンに変えてようやく到達することができました。

     生命が「流れ」であり、私たちの身体がその「流れの淀み」であるなら、環境は生命を取り巻いているのではない。生命は環境の一部、あるいは環境そのものである。

    そうなると我々の体はその辺の石ころやまたは遠い宇宙の星屑となんら変わりないものになりますね。環境には「自我」はなく環境の一部の我々にも「自我」は無いと改めてに認識されます。

    1. 後藤一敏 より:

      高橋さん:PCを変えて時代に遅れることなく良かったです。自我がないことを気づくのは大変素晴らしいことです。
      しかし、自我とは心を持った人間であるからです。石や瓦礫にはありません。
      その他いろいろな事例から気づくことができます。気づきを多くして心からそうだと得心することで自分のものになります。

      追記:
      物質・物体ということは、誰でもよく知っている。生命の身体も物質なのです。
      世の中にある建物、石などの物体と、同じものです。
      身体に対してある愛着は激しいものですが、身体とはこの地球の物質そのものなのです。
      しかし、生命の身体は石とも椅子とも違うのです。違うところは身体という物質は「知
      る」ということができることです。知る機能がない物体は純粋な物質で、知る機能がつい
      ている物質は「身体」と言うのです。象もアメーバも身体という物体を持っている。しか
      し、知る機能も付いている。ですから、「生命」なのです。知る機能は、人間だけに限った
      ものではありません。  
      この文は「ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析」から記載しました。

      1. 高橋 より:

        「知る機能がない物体は純粋な物質で、知る機能がつい
        ている物質は「身体」と言うのです。象もアメーバも身体という物体を持っている。しか
        し、知る機能も付いている。ですから、「生命」なのです。知る機能は、人間だけに限った
        ものではありません。」

        今、庭先で朝顔が支柱にからんでいるところです。それを見ているとつるの先端が支柱のありかを「知ろう」としているように見えます。インゲンもまたそうです。
        生命は「知る」ことなのですね。
        かつてパティパダーで読みましたが人間の「感じる」ことも生命なのだとありました。生命とは「感じる」ことなのだと。植物も「感じて」いるのでしょうか。切ったり引き抜いたりしたら哀れになります。仕方のないことだと思いながら(すまないね)と思いながら作業しています。

        植物も感じているのでしょうか。

        1. 後藤一敏 より:

          高橋さん
           朝顔を見て命への愛おしさを感じることは良いことです。朝顔も感じています。しかし、人間のような心はありません。
          植物の細胞も基本的には人間などとその原理は同じです。特別なものは葉緑体があり、そこで太陽光のエネルギーを利用して
          二酸化炭素と水から糖質(デンプン)を作り出しています。動物はそれを食して生きています。、
          「生きるとは何か」(5)に「生物学に学ぶ自然の中の人間」として触れていますので、再度読んでみてください。

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