生きるとは何か - No.96

歴史に学ぶ自然災害への対応

2019年11月8日発行

今年に入ってからは6月に集中豪雨による土砂崩れや河川の決壊、真夏の猛暑、10月には台風被害が激甚化しています。千葉県では15号台風の強風により建築物への甚大な被害、加えて電柱や樹木の倒壊で長期間の停電を余儀なくされました。被害の片付けも終わらないうちに、19号の豪雨災害では東日本や東北地方の広範囲な地域で、多くの河川が決壊し深刻な浸水被害が発生し、都市部でも浸水によりタワーマンションが機能不全に陥りました。立て続けの自然災害の発生は地球温暖化の影響があるとも言われています。

今だけでない大きな自然災害
今から230年前の江戸時代の中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて天明の大飢饉が発生しています。冷害が続いているさなかに、天明3年3月12日に岩木山が、7月6日には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせ、日射量低下により、農作物は壊滅的な被害を受けて、これにより翌年から深刻な飢饉状態となったとのことです。
被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白の著書「後見草」が伝えていますが、諸藩は失政の咎を怖れ、被害の深刻さを表さたにしていないので実数は1ケタ多いと推測されています。(ウイキペディアより抜粋)

  温故知新:二宮尊徳と現代科学
江戸時代も現代でも自然災害は避けることはできません。被害を最小にする予防手段をするとともに、災難に遭ったら復興に全力を尽くすしかありません。江戸時代に自然の道理をわきまえて、復興に尽くした偉人がおりました。天明の大飢饉のさなか、天明7年に二宮尊徳(幼名:金次郎)は小田原で生まれ、5歳のときに南関東を襲った暴風により田畑と家を流失し、借財を抱え極貧のなかで育ちます。16歳までに父、母を亡くし、貧困の中で本家の農業に励み、身を粉にして働く中で、論語、大学、中庸の勉強をしたようです。70歳で亡くなるまで多くの復興事業と藩の財政再建をして、歴史に名を残しています。残念ながら戦争中に愛国精神高揚に利用されたことで、現在では忘れ去られています。しかし、その思想と実行力は賞賛に値します。その思想について黒岩一郎著「新講 二宮尊徳夜話」(明徳出版社、平成23年11版)に詳しく記されています。ここではさわりの部分を紹介します。

天道と人道
自然の真理を天道(天理)と言い、生きている人間のなすべき道を人道として、その教えが夜話に記録されています。
・天道と人道との差別を、よく弁別する人少なし。それ人身あれば欲あるは則ち天理なり。田畑へ草の生ずるに同じ。堤は崩れ堀は埋まり橋は朽ちる、これ則ち天理なり。然れば、人道は私欲を制するを道とし、田畑の草をさるを道とし、堤は築きて立堀をさらい、橋は掛け替えるを以って道とす。この如く、天理と人道とは、格別の物なるが故に、天理は万古変ぜず、人道は一日怠れば忽ちに廃す。されば人道は勤むるを以って尊しとし、自然に任ずるを尊ばず。(二宮尊徳夜話 44頁)

私なりに読み替えます。
自然の道理と人間の道理の違いをはっきりと認識し、理解する人はすくない。人は欲があり、生きているかぎりは必ずある。これは自然の道理である。田畑に雑草が繁茂するのも同じである。堤防は崩れ、堀は土砂で埋まり、橋は腐食して朽ちる、このことは自然の道理である。それゆえに、人が生きていくうえでやるべき道は、欲望を抑えることであり、田畑に草が生えれば草取りをし、堤防を修復し、堀の土砂をさらい、橋を掛け替えることである。自然の道理と人間の道理は大きな違いがある。自然の道理は永遠に変わることのない真理である。人のするべきことは一日も怠ることなく再生、修理をしなくてはならない、怠ればたちまちだめになる。それゆえ、人は日々怠ることなく努力することが尊いことである。成り行き任せで、サボっているのはよくないことである。

この尊徳の言葉は、自然科学の視点で見ると、宇宙の万物を駆動している法則の一つの熱力学第二法則がありますが、それを表現しているようにも解釈できます。熱力学第二法則によれば、外部から手を加えない自然の状態にあるあらゆる物は乱雑になる方向に進むという性質を持っています。これはエントロピー増大の法則です。熱は高温側から低温側にしか流れないし、低温の物体から高温の物体に移ることはないのです。逆な方向に進めるには外から何らかの仕事(エネルギーを与える)をしなければならない。エントロピーとはこれ以上ほかのエネルギーへの変換や仕事に使うことのできない熱エネルギーで、乱雑さの指標となるものです。エントロピーが増大するとは使い物にならない熱エネルギーが増えることで、無秩序な方向に向かい、すべてが崩壊した状態に進むことになります。我々が日常生活の中で片付けもしないで、怠けてゴロゴロしていると家の中はたちまち乱雑になるのと同じです。尊徳は身のまわりに起こる問題に対して、自然の法則である熱力学第二法則を踏まえていたことになります。
貧困と苦難のなかから自然の本質を掴んで生涯を全うした偉人です。

人道を尽して天道に任せる
世の中では、人の為にと努力しても報われないことがありますが、そのような時にはどう対処すればよいのか、幼い時から多くの苦難を経験した尊徳には、次のような言葉があります。分り易くするために、私なりに現代の言葉遣いに直して示します。

天道は自然である。人道は天道に従うと言えるが、それは人の努力(人為)である。人道を尽して天道に任すべきである。人為をゆるがせにして、天道を恨むことをしてはいけない。例えば、庭前の落葉は天道である。無心にして日々夜々に積る、これを払わないのは人道ではない。払ってもまた落ちる、これに心を煩わし、これに心を労し、一葉が落ちたといって、そのたびに箒を持って掃くのは、これ塵芥(ちりあくた)の為に、仕事をさせられていることになる。愚かというべきである。木葉の落ちるのは天道である。人道をもって、毎朝一度は払うべきである、また落ちてもそのままにして置き、無心の落葉に仕事をさせられることのないようにしなければならない。しかし、人道をゆるがせにして積るにまかせることにしてはならない、これは人道である。愚人といえども悪人といえども、よく教えるべきである。教えを聞かなくても、これに心を労してならない。聞かないからといって諦めないで、何度でも教えるべきである、教えて従わなくても怒ってはいけない。(227頁)

天然自然の働きは、そこには作為はなく自然の原理にそってなされるのであって、人の力では如何ともしがたい自然の活動である。人がするべきことは自然の働きに従うしかないと言えるが、しかし、できうる限りの対応や対策をした後は自然に任せるしかない。庭の落葉を例として人のするべき心得を示している。示唆に富んだ例示です。
日常のことに当てはめて考えてみると、「私たちは、些細なことにいちいち口出しをして却って悩みを増やすことになりがちです。相手との関係や、ものごとの動きをよく観察して、必要と思う時にはしっかりと対応する。しかし、小さなお節介は慎み、その都度、その都度の動きに振り回されないことが肝心です。また、人にものごとを説明して従ってもらえないときでも努力するべきである。聞き分けのない人や悪意を持った人であっても、良く説明するべきであり、なかなか分かってもらえなくてもイライラしてはいけない。理解してもらえないからといって諦めることなく、繰り返し、繰り返し説明するべきである。それで従わなくても怒ってはいけない」と言っています。
二宮尊徳は忍耐強い人で、怒鳴ったり怒ったりしない人あったようです。だからこそ多くの人々が彼に従い、困難な復興事業をなしえたと思います。

  敵から忍耐を学ぶ
ダライ・ラマ14世の「仏教哲学講義」(大東出版社、2005年第三版)に、忍耐についての素晴しい言葉を見つけました。抜粋して紹介します。この講義はハーバード大学で五日間にわたり行った講義の記録とのことです。二宮尊徳の働きと通じるところがあるように思います。

・最も重要な修行の一つは忍耐(忍辱)、すなわち寛容の実践です。寛容というものは、敵からしか学ぶことができません。あなたの師からは学ぶことはできないものです。(略)あなたを傷つけようとしている敵に会ったときには、あなたはその敵から寛容を学ぶことができるのです。シャーンティデーヴァは次のような素晴らしい議論を展開しています。敵というのは、実際には素晴らしい精神の導き手です。なぜならば、敵を前提にしてはじめて人は忍耐力を身につけことができるのであり、その忍耐力に依拠して功徳の大きな力を積むことになるからです。そこで、敵は、あたかもあなたが功徳を積むのを助けるために、わざとあなたに対して敵対しているようなものです。(199頁)
 (註:シャーンティデーヴァはインドのナーランダ僧院大学の僧侶で700年頃にサンスクリット詩として入菩薩行論を作る。:ネットより検索)

二宮尊徳は仏教で最も重要としている忍耐と寛容をしっかりと身に付けていたことになります。
簡単に従うことをしない農民や意地悪い妨害をする地主、代官、領主などに対して諦めることなく、寛容な心をもって忍耐強く説得をしています。
誰でも幸せな生活を願っていますが、現実は厳しく、苦しみや悩みがあります。そこを乗り越えるためには忍耐と寛容の心を持つことが大切です。日常のなかで、忍耐と寛容の心を育てる簡単な実践方法があります。それは身近にいる敵(家庭や職場で苦言や反対意見をづけづけと言ってくれる人)と対しているときがまさに仏道修行です。素晴らしい精神の導き手として対応し実践すると自然に身につくと思います。実践してみてはいかがですか、自意識(自我)が薄れていくことにふと気づきます。
(この資料は「生きるとは何か」(13)2012年3月の内容を修正・補足しました)

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