人生百年時代
人生百年時代と言われています。100歳を超える人は、私の身近にはいませんが、90歳代の元気な老人は多く見かけます。私の住んでいる川崎市麻生区は長寿日本一で、平均寿命は男性84.0歳、女性89.2歳です。神奈川県の統計では100歳超える人は男性733人、女性4653人計5386人(令和6年度比245人増)で、圧倒的に女性が長生きしています。この様な長寿者は21世紀に入ってからで、20世紀初頭では産業の発展した工業国の平均寿命は30歳から45歳と言われていました。世紀末時点で、平均寿命は約67歳との資料(ブリタニカ)があります。これは医療技術と科学技術の進歩により、医療レベルや栄養状況と生活水準の改善によるものです。
健康で長生きは、誰でも望むことです。しかし、老齢になると足腰が衰え、病気勝ちになり、病院通いが始まります。健康で活動できる健康寿命は平均寿命より短くなります。そこで厚生省の資料(2022年)を調べると、男性の平均寿命は81.05歳ですが、健康寿命は72.57歳で8.49年は不健康な老後を過ごしています。また、女性の平均寿命は87.09歳ですが、健康寿命は75.45歳と11.63年と患いが続くことになります。
長生きすると多くの人は、不健康な期間が長く続くことになり、死の影を感じながら、終末を生きることになります。平均寿命が長いのに健康寿命は大凡9年~12年短くなります。老人は病院通いが日課なりますが、医療保険制度のお陰で、経済的負担も抑えられて長生きすることが可能になりました。しかし、社会全体で見ると人々の寿命は伸びましたが、経済的な負荷が働き盛りの壮年・青年層に及び、更に介護施設や介護をサポーする介護保険士の不足などの社会的問題が出てきています。
長生きの意味すること
上記の寿命資料は発展した工業国の平均寿命の統計です。世界には貧困と戦乱が絶えない地域があり、そこの国民は寿命統計もなく、子供の死亡率は高く、長生きを望むことも出来ない、困窮の中で生活しています。人類として、同じ地球上に住んでも大きな格差があるのが現状です。
発展した工業国では、確かに裕福な生活と長生きが可能になってきました。先進国も途上国も世界の国々は、科学技術の急速な発展で、世界のあらゆる地域の情報は瞬時に繋がり、移動も便利になり地球は狭くなりました。しかし、この進歩が人類に幸せをもたらしたかは疑問です。戦争は絶えることなく、権力者が一方的に他国を脅かし、自国だけの利益を追求する社会になっています。
特定の恵まれた人は、幸せな人生を送る可能性は高いですが、現実の世界においては何が起こるかは不確実です。日本ではほぼ毎年巨大地震が起こり、人的にも経済的にも大きな災難を受けています。また、平穏に見える市街地で、通り魔に襲われ亡くなる人もいますし、静かな住宅街で暮らしている老夫婦が強盗に襲われ金品を収奪され、殺害されるという事例もニュースで報じられています。日常の生活の中でも苦しみや不幸に遭っているのです。生活が豊かになるといっても、全ての人が豊かになるわけではありません。取り残された人は孤立し、心を病み、他人の幸せを憎み、破壊する行動をする人も出てきます。
生きていることは、先々何が起こるかは誰も予測できません。幸いに不慮の事故に遭うこともなく、大きな病気もなく100歳を生きた方は希なる人生を送ったことになります。
少し深く考えてみると、生まれるのも偶然で、目的を持って生まれたわけではありません。人の一生を単純に記述すると、生まれてから、幼少期から知識を学び、成人したら何らかの職業に就いて生計を立て、子孫を残し、生老病死の一生を終わるのです。
生物学者の本川達雄氏はナマコの研究(1)で知られていますが、氏は本の中で動物は子孫を残すことが使命であり、人間もその面で見れば「42歳を過ぎたら、体は保証期限切れ」と述べています。今の長寿は技術により作り出されたもので、年金世代は技術が作った「人工生命体」ですとのこと。こんな技術を開発できるのは人間だけであり、英知が服を着て、ここにこうしているのだから、ただ長生きを目指すのでなく、英知のたまものらしい老いの時間を送るべきでないでしょうかと投げかけています。
現代の私たちは平均寿命が伸びて長生きをしていますが、健康寿命を伸ばし、解放された長い時間を如何に過ごすかが求められていると思います。経済や技術の発展に寄与した生活から解放されたのですから、生きていること、死ぬことの意味を深く見つめる人生をスタートさせるのも新たな道ではないでしょうか。
無常を体感すること
世界を長い視点で眺めると、世界史や日本史の本を開いて分かるように過去数千年の歴史は、国が興り文明・文化を創造して、戦争により破壊され、一時も留まることのない人類の活動が記録されています。日本の近代の歴史を見ても、江戸から明治維新と劇的な大転換があり、その後は技術・文化の進んだ西洋諸国の侵攻に対抗した戦争の歴史でした。80年前に原子爆弾を投下され、焼け野原からの奇跡的な再復興を成し遂げた昭和以降の平和な社会を謳歌していますが、世界情勢は刻一刻と変化しています。そこは無常の世界です。何時までこの平和な日本が続くのかは、私たちの行動に掛っています。
日常生活の視点で見ると、そこには無常の流れが存在しています。仏教の経典(四十二章経)(2)から引用します。
「無常をみる」(第十六章)には、ブッタの次のような言葉があります。
・天地を見て無常と思い、山や川を見て無常と想い、万物の盛んな躍動をみて無常と想い、そのことによって、執着する心をもたなければ、早いうちに悟りの境地を得るであろう。
ブッダの分かり易い言葉で、解説は不要と思いますが、著者の説明を追記します。
天地や山川はいつも変わらないように存在して、悠久のように思うかもしれない。しかし、よく観察して見れば、それらは常住不変なものではなく、無常なものである。そのことを正しく観察して知ることが必要だといい、また万物の盛んな躍動をみては、すべてが無常であると確認することが大事だとの教えです。
自分を含めてこの世のものは、すべてもろもろの因縁によってつくられている。因とは直接的な原因を言う。すべてのものは、つねに変化して、ひと時も同じ状態に留まることはない。それは宇宙と人生をつらぬく真理といってよいのです。
ダンマパダにある教えを紹介します。
・物事が生じて、また消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、物事が生じて、また消え失せることわりを見て一日生きる方がすぐれている。([ダンマパダ]113)
無常のことわりを知らないで百年生きるよりも、物事が生じては滅しているという真理を認識して一日を生きて行くことが大切であるとの教えです。無常を感じることで、執着が少なくなり、心穏やかに生活ができるのです。
また、もう一つの例は、60歳定年後に、書道を学び始めましたが、その時の手本の一つに菜根譚(明代の儒者洪応明の書)があり、そこに私の好きな言葉がありました。野口白汀氏(当時、日展審査員)が行書の手本として纏められた本(3)です。読み下しの日本語訳を紹介します。
・天地には万古あるも、この身は再びは得られず。人生は只だ百年のみ、この日最も過ぎ易し。幸いにその間に生まるる者は、有生の楽しみを知らざるべからず、また虚生の憂いを懐かざるべからず。
説明文として、「天地は永遠に存在するが、この身は二度と生まれては来ない。人生はただ百年にすぎないのに、月日のたつのは甚だしく早い。そこで、幸いにこの天地の間に生まれて来たからには、人間として生まれた命の楽しみを知らなければならないし、また、この人生をむなしく過ごしはせぬかという恐れをもたなければならない。」と記されています。
昔から、人生は長くて百年と見ていたようです。しかし、現代人の寿命は、実質的に百年に到達しました。本当に長生き出来て幸せかどうかはこれからの心掛けしだいです。
生きているのは、今のこの瞬間
無常とは、世界も私もひと時も留まることなく変化している状態です。身近な例をあげれば、身体に流れる血液は、1分間に4~6リットル心臓から送られて、1分で全身を循環するそうです。そして数分間止まるだけで、重大な命の危機になります。このことを考えると、生きているとは、血液が正常に循環している今この瞬間しかないのです。大動脈剥離や脳血管破裂などが起れば即人生の終わりです。
生きている今の心は、これまでの過去の行為(蓄積した知識や身体での体験など)が脳内に蓄積されたデータを用いて思考が創出されています。すべては今この時のことです。未来予測できるのも、永遠を思うのも今この時です。

瀧のように滔々と流れ落ちる水流は、心の変化の速さと、命の一瞬の輝きを表しているとの思いで言葉を書き入れました。
参考文献
(1)本川達雄「人間にとって寿命とはなにか」(角川新書、2016)
(2)服部育郎「ブッダになる道―四十二章経を読む」(大蔵出版、2007)
(3)野口白汀「実作する古典、菜根譚」(同明舎出版、1992)
