人生論を説くような柄ではありませんが、平凡な私が、生きてきた過去を振り返ってみてどの時点が折り返し点なのか考えてみました。人にはそれぞれ人生を変えるポイントがあると思います。小学生の時、中学生の時、大学生の時それぞれに思い出はあります。しかし、これら学びの時の私は世間に問えるようなことは何一つない平凡な青春時代でした。
実社会に出てからは、目の前の課題に対して、一つ一つ問題に対応することに追われましたが、なんとか解決できたという達成感がありました。一般にはなじみの少ない分野の仕事でしたので専門用語が多用されていますが、その説明すると長くなるので最小限としました。
人生は定年後からの時間を、どのように過ごすかも重要となります。私は60歳から人生の方向を転換しました。一人の平凡な技術者が、選んだ生き方の事例として読んでいただければと思います。
実社会での活動
新潟大学工学部で応用化学を学びましたが、就職先を考えた頃の化学系では、繊維会社の業績がよく人気がありました。しかし、これからの産業社会で必要とされるのは、電力エネルギーであると思い、求人情報に東芝がありましたので面接試験を受け入社しました。3ヶ月の現場実習の後、配属は重電機事業部門で発足したての研究所への配属となりました。この研究所は、事業に直結する製品の基礎技術や要素技術を研究開発する部門です。
入社して最初の課題は、金属を溶融する高周波誘導炉の炉壁内面に充填する石英粒子の充填の研究でした。与えられる仕事は、大学で学んだ知識とはほとんど関係ないが、事業で必要な問題解決をすることでした。テーマは数年毎に変わりました。30歳頃は大電流を気中で遮断する時に発生する気中アークを消弧する無機材料の消弧板の開発や、助っ人としてバリスタ(酸化亜鉛素子で電気器機に過電流が流れたときに抵抗が急激に下がる半導体素子)開発に2年間従事するなど無機材料と関わっていました。
30歳代の活動
その後、有機絶縁材料関係の課題に転換しました。グループを組んでいた若手の技術者が電極支持板であるフェノール樹脂表面に発生する銀メッキ電極から銀移行のトラブルに苦戦していました。早速、原因究明と対策実験に参加し、最終的には外部の大気環境汚損で発生する窒素酸化物や硫化物が大きく影響することを突き止め、対策を施すことで解決しました。当時は急激な経済成長下で大気汚損がひどくなり、電機製品にも影響が及んで製品事故がしばしばあり、絶縁材料のトラブル対応も緊急な仕事として飛び込んできました。
当時は種々の電気絶縁が関係するトラブルがあり、設計担当と電力や鉄鋼会社などに同行し事故原因調査と、その再現試験ならびに対策の報告などを、年に数回対応していました。
昭和40年半頃からは、高度経済成長で産業用の電機製品も高電圧・小型化となり、絶縁技術もコンパクトな絶縁構造が要求されました。それに対応するには、性能の高い成形材料(成形し易く、欠陥のできにくい不飽和ポリエステル樹脂に無機充填材を入れたプリミックス樹脂)とエポキシ注形材料の高性能化(無機充填材の種類や粒度、エポキシの種類など)が必要とされました。絶縁材料を効率よく製品に適用する製造技術の開発も合わせて向上させることが求められました。これら絶縁技術に対応していると40歳になっていました。
仏教に目覚める
39歳の夏に、東京三田にある松原泰道師の龍源寺で出版されたばかりの本「迷いを超える[法句経]」(集英社、1984)に出会いました。この本が玄関横のテーブルに積まれていて、泰道師がサインに応じていました。早速、お願いすると、見開きに「己こそ己のよるべ 泰道」と書き入れてくれました。
このサインは、私が20代のとき自己鍛錬として入門し、稽古に励んだ日本少林寺拳法の練習前に唱和する聖句の一つ「己こそ己のよるべ、己をおきて誰によるべぞ、よく整えし己こそ、まこと得難きよるべなり」でそれは法句経160番の言葉でした。まさに運命の出会いであり、この本で「仏教とは人の生き方を説いている」ことを知ったのです。その後、仏教書や安岡正篤、中村天風の人生への啓発書、さらには月刊誌致知などの自己啓発の書物を読み始めました。60歳までは、通勤の時間や休みの日に、これらの本を乱読する状況で、時には坐禅会に参加していました。この時期に道元の正法眼蔵にある「現状公案」巻で「仏道をならうとは、自己をならうなり、・・・」の言葉に出会い、感動しました。これらの言葉は、サラリーマンとして実社会で活動する時の生き方の杖となっていました。
40歳から50歳代の活動
この頃から、仕事の守備範囲が広がり、他工場で生産している高電圧機器の絶縁にも関係するようになり、製品開発やクレーム対応に軸足が移っていました。大電力用のSF6ガス開閉装置の絶縁スペーサの品質管理や製造技術に関係して、製造担当の関連メーカとの技術交流や不具合対応がありました。また、軽量化が求められていた大型のポリマーブッシングの技術開発に関連して、海外メーカとCIGRE(大電力国際会議)を通して委員会での議論や共同試験へ参加をしました。その中で屋外用エポキシ樹脂の評価試験法の共同試験への参画と、国内委員会での試験結果の検討や、国際会議へ出席する機会も増えて視野が広がりました。
42歳頃に、社内のプロジェクトに参画(電力用リン酸型燃料電池開発)が求められ、苦手な英語で海外を行き来するようになりました。このプロジェクトでは大きな炭素電極板の国内製品化を担当し、設計技術者と共同して、提携先の技術をベースに国産の製造ラインを制作しました。
海外との仕事が一段落して、自グループ内に保有する絶縁技術をどうしたら活用できるか考えていた時に、交通事業部の設計担当者から国プロジェクト(リニア―山梨実験線)が提案され、地上コイル(浮上と推進)関係は技術的に対応可能かどうかと相談を受けました。条件付きで、地上コイルの絶縁技術は責任を持って対応すると即答しました。それから約5年間は山あり谷ありでしたがプロジェクトは無事終了しました。
40代半ばからは、海外で大きな絶縁に関係する事故があると、原因究明と対策のために出張する機会も増えてきました。
気がつくと、すぐそこに定年が迫っていました。58歳で東芝を定年退職し、60歳までの2年間は、社内の人材会社に所属して、管理業務が一切ないフリーの立場になりました。所属していた絶縁技術部門に何を残せるか、東芝総合研究所図書室に籠り、過去10年の国内外の文献(物理、化学、窯業、高分子材料関係)を調査しました。その結果、ナノ粒子を充填した材料(ナノマテリアル)が、それぞれの分野で新たな潮流となりつつあることを知りました。基礎研究のための研究費と人員を確保して、2年間研究してその結果、新たな電気絶縁材料(ナノコンポジット)となる可能性を見極めたところで、後輩にバトンを渡し研究生活を終了しました。実社会での仕事は終了、60歳になっていました。
実社会で得た教訓
・依頼を受けた仕事は専門外でも断ることはしない。
上司が仕事を指示するのはある程度の能力があると期待するからです。最初から出来ませんと断わらないこと。当然、全てが成功するわけでもなく、失敗もあるが、そこから学ぶことは多くあり、次の進歩の糧となる。
・成し得た経験は、必ずその後の仕事に役立つ時がくる。
海外との初仕事で、仕様作成、海外メーカとのやり取りなど多くの困難もあったが、その時の実践が、その後の大型プロジェクト推進に非常に役に立った。また、30代での材料開発や製造技術の経験が国プロでの技術開発時に大きな力となった。
・事故対応や問題発生時は冷静に相手方と対応すること。
30代中頃は、電気器機も高電圧、小型化になり、新規開発と共に、製品の不具合も増えて、問題解決のため、設計者や品質管理部門に同行して、事故原因究明をしました。相手の状況を理解して、冷静に対応をしていると、解決策も見えてきて、問題も解決しました。この時の対応は、自分をコントロールする良い実践の場となりました。
・誠実に対応することで信頼が生まれる。信頼は大きな財産となる。
仕事していると次々と問題は起る。それは進展している証拠であり、原因を見つけ解決することは、客観的に物を見る視点も育ち、自身も向上しているのです。そこに信頼が生まれます。信頼は薄紙を貼るように、少しずつ積み重なるものです。
60歳で、利益や効率優先の社会から離脱し田舎に帰る
60歳定年の頃、群馬県に住む母親に認知症の兆候があり、両親だけでは生活が厳しくなることが予想されました。10年間は恩返しと思い、介護生活に時間を優先することにして会社勤めを辞めました。長い間、盆と正月にしか帰省していないことを反省し、兄弟二人で交代しながら世話をすると決めてスタートしました。私は月に3泊4日で2回から3回帰省して実家のバリヤフリー工事を始めました。3年後には隣町に住む弟が教員定年となり、時間が取れたので、6割位は面倒を見てくれて、私は月2回くらい弟と交代して両親の世話をしました。
母は自宅での要介護生活6年、85歳で亡くなりました。父は認知症もなく、庭の草木の世話を楽しんで、週一回のデイケアサービスを受けての生活が10年続き、100歳で天寿を全うしました。
介護生活の実体
母親の介護で最初に感じたのは、人生とは何と脆いものなのか、生きているとは何かと真剣に考え始めました。40歳から20年間に乱読していた知識が考えるベースになっていました。
あれほど几帳面に家事をこなし、子供の世話や趣味の手工芸に熱心で、ちぎり絵や和紙人形の制作などに打ち込んでいた母が80歳頃から制作が出来なくなり、普段の買い物も何を買ったら良いのかも分からなくなってきました。
年ごとに病状は進んでいました。3年後、いつも散歩し喫茶店に立ち寄りコヒーを飲んだりしていました。その時、会計は母が支払いをしていましたが、あるとき突然、払わなくなりました。その後、症状は進み、家の鍵や財布がないと騒ぐようになり、何度も鍵の作り直しもしました。父には60年くらい前の出来度を、昨日のことのように文句を言い始めました。優しかった母のイメージは無くなり、症状は進み、色々と事件・事故も起こし、対応が難しくなってきました。
母との別れ
私が交代する前の晩には、座ったままで寝ようとせず、その場でお漏らしをして、弟は大変な状況のようでした。私が実家に着いたときは、布団に寝ていましたが、朝から少し熱が出ていましたので、額を冷やし様子を見ていました。しかし、このままでは男手の兄弟では難しいと思い、高崎にある老人病院への入院を考えて、電話しました。先方は、迎えに行くことは出来ませんので、車で来て下さいとのこと、体重があり、重くて車に乗せることが出来ないと言うと、救急車を頼んで来て下さいとのつれない返事でした。
仕方なく、隣町に住む妹に電話して入院用に着替えなどをお願いして、着替をしていました。私は、消防署に電話して救急車を依頼しているとき、隣の部屋から妹が、お母さんの呼吸が止まったと、叫び声が聞こえました。私は電話口で消防の人に、呼吸が止まったと言ったら、人工呼吸をして下さいと指導を受けしていると、暫くして救急車が到着、手際よく人工呼吸などしましたが、再生出来ないのでそのまま病院へ行き、死亡が確定しました。廻りはドタバタしましたが、自宅での静かな最後でした。
空いた時間の過ごし方
介護始めた60歳以降は、空いた時間で、趣味として書道と絵画を始めました。書道は週一回近くの書道塾に、絵画は時間を見て写生(町田市の薬師池公園)を始め、そこで得難い先生に巡り逢い指導を受けました。書道は、一年後にNHKラジオ深夜便で、たまたま聞いた野口白汀氏(日展審査員)の言葉に感銘して、教室を探し翌週に入会しました。趣味でも楽しむためにはレベルアップが必要で、指導を受けながら、公募の書道展や絵画展に出品しました。それぞれの道の指導者にめぐり逢うことで、学びと共に、得難い仲間ができ、今も継続しています。
・これまでの実社会の経験を活かすために、電気学会で調査専門委員会の立ち上げ(退職1年前)と、幾つかの専門委員会にも関係しました。この活動はあくまでボランティアで70歳まで継続しました。
・仏教の勉強は、関係のあつた臨済宗龍源寺(松原哲明住職)で月一度の坐禅会に参加し、法話後に和尚が取りまとめをしていた自主的な勉強会(三宝会)、に誘われたことで多くの仲間が出来ました。和尚の引率で、日本仏教の祖師である円仁、道元、空海などが修行した中国ゆかりの地や、玄奘三蔵の足跡を巡った旅行、更には、インド仏跡巡拝など年一回の参拝旅行は大きな財産となりました。残念ながら、2010年に和尚は70歳で逝去しましたが、残された仲間と勉強会は継続することになりました。
定年後の人生で得た教訓
・新たな学びをゼロからスタートしても、10年継続するとそれぞれの分野の門口には立てるようになりました。
書道は毎日書道展に入選、絵画は中堅の公募絵画展に入選するレベルになり楽しみが生れました。仏教は基本的な教えが整理できて、無常を体感できるようになり、科学的な事象が仏教の理解に役立つことを学びました。
・両親の介護は子供の義務です。兄弟が譲り合い協力することで恩返しができました。
介護をすると決めたことで、企業から離れ価値観の異なる世界があることに気づきました。人間性をとり戻すために仏教の世界を学び、生きることの意味を問う時間が出来ました。これも両親が与えてくれた贈り物です。
70歳からの新たな人生
70歳の時、100歳の父を看取り、介護生活は終了しました。完全な自由時間が与えられたので早速、以前から学びたいと思っていた、中村元先生が始めた、東方学院の授業を受講しています。
東方学院で授業を受ける
この学院は、学びたい人が一人でもいれば授業が成り立つとする現代版寺子屋です。2012年から加藤榮司講師の授業をとりました。中国唐代の僧義浄がインド僧院の日常生活を書き残した「大唐南海奇帰内法伝」や、その前の南北朝時代399年に中国に渡った僧法顕の「法顕伝」の原文を翻訳しながらの講義でした。また、前田專学理事長からは「インド哲学へのいざない」と中村元著の「〈生きる道〉の倫理」や「〈生命〉の倫理」などを6年間受講しました。現在は学院で脳外科医である浅野孝雄先生の「現代脳科学と仏教心理学」と、武蔵境にある観音院で来馬正行住職から「坐禅の実習と『正法眼蔵』の提唱」の2講座を受講中で、既に5年が経過しています。
輪読会の継続
松原哲明和尚の亡き後は、三宝会の仲間と「輪読会」(月一回)を継続していましたが、コロナ禍で会議室に集まっての話ができず、一時期はZoom会議をしましたが議論するには不向きで参加者も少なくなり輪読会そのものを終了しました。毎回、小文の資料(A4で4~5枚)を配布して、話し合いの種としていた小文資料も2022年4月で累積136回となり、「塵も積もれば山となる」の喩がありますように、かなりの分量となりました。、それまでの資料を整理して自費出版で「生きるとは何か」(サンガ、2019)と題して初めて本を上梓しました。最初の本は、仏教が説く内容を、私なりに科学的知見を盛り込んで、感銘を受けた本から、重要なポイント引用して作成しました。420ページと厚くなり、整理は出来ているが、十分に消化しきれていない箇所もあると感じていました。
その後、継続している輪読会資料も、2年分が蓄積したので、前の本を補完する意味もあって、最近の世間の出来事を仏教の視点で再整理することを思い立ちました。仏教の学びも少しは深くなりましたので「生きるとはーもう一人の自分探し」(銀の鈴社、2023)と題して出版しました。本は200~250ページを目標に内容を選択し、人生80歳で得た人生観を語りました。
熱き思いで冊子を作る
鎌倉の大仏殿高徳院にある「ジャヤワルダナ前スリランカ大統領顕彰碑」に関して「日本を救ったブッダの言葉」として冊子を作成しました。日本の戦後処理のサンフランシスコ講和会議でジャヤワルダナ師が日本を分割統治する意見もある中で、真の日本の独立が必要であるとブッダの言葉を引用した演説が骨子です。高田達雄先生(東京都市大学名誉教授)から借用したスリランカ紹介の本に掲載された演説の全文読んで、非常に感動して、是非とも多くの日本人に知って欲しいとの思いで、一気に作成(2020年9月)しました。この冊子の縁で多くの人と新たな繋がりが生れています。

82歳の時にも繋がりの輪は広がっていました。2023年4月25日に鎌倉ロータリークラブの例会に招待され、駐日スリランカ大使の卓話を聴き、終了後に高徳院での懇親の機会に恵まれまれました。写真は顕彰碑を見ている大使夫妻とロータリークラブでお世話してくれた柴田氏です。
この縁が出来たのは、テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老とミャンマーやスリランカ仏跡巡拝の旅行時に知り合い、交流が続いている関谷弁護士のお陰です。関谷氏は、顕彰碑の製作経緯を動画作成して、冊子の裏表紙にQRコードを付け理解が深まるようにしてくれました。個々別々に走っているのですが、まるで共同作業をしているような繋がりです。有難いことです。
80歳からのメッセージ
・人生は出会いにより縁が生れ、新たな展開が広がります。
先々どの様な出会いがあるかはわかりません。
一日一日を努力して行くだけです。
・人生は長いようで短いものです。
生きているのは今日一日です。何時死ぬかは分かりません。
生きている今を大切にして生きるだけです。
厳しい障害も乗り越えた星野富弘さんから学ぶ
2023年4月3、4日に一泊二日で群馬県にある「わたらせ渓谷鉄道」沿線の桜見物と星野富弘美術館を訪ねる旅を輪読会の友人3人で楽しんできました。
「星野富弘氏は1946年生まれ、群馬大学を卒業し、中学の体育教師となり、クラブ活動指導中に頸椎を損傷し、下半身不随となる。手足の自由を失うが口に筆をくわえ文や絵を描き始める。」今は立派な星野富弘美術館があり、参観者も多く、円形の壁面に沿って絵が展示され、ゆっくりと鑑賞できるようになっています。どの作品も心が癒される絵とそれにあった言葉が添えられています。写真は展示されていた絵の一例です。口に筆をくわえて描かれたとはとても思われない素晴らしい絵、文章も確りとメッセージが伝わります。

自然を守ろうなどという人の身体も自然そのもの
世界中悲しいことばかり
人間という自然も守ろう
人間の身体は自然そのものです。普段、私たちはそれに気づいていません。
私という個人は自然の身体が在っての私なのです。心と身体は一体です。心に生じる邪念が、悲しい現実を生み世界中に蔓延しています。国家間の争いや、侵略戦争で多くの人々が苦しんでいます。人間も自然の身体であることを自覚して、環境と健全な身体を守りましょう。
美しい花は一瞬の輝きを見せて、静かに散っていきます。身体も無常で、その時、その時に輝きながら絶えず変化しています。世にあるすべての物は、無常の姿なのです。富弘さんは身体的な自由を失っても、心の自由は広く、強靭です。
五体満足な我々は、何でもできる自由があるのです。心の働きに気づけば大きく羽ばたけます。
まとめ
ここまで、平凡な一人の技術者の人生を辿りました。現在活躍している現役の皆さん、シニアの皆さんもそれぞれの人生の歩みがあります。同じ経験の人は誰もいません。全員違った道を歩くのです。
その場その場で、今日一日と思って最善を尽くすことで、各自の人生が生れます。
この小文は、電気学会の電気絶縁技術分野のシニア(大学、企業で現役を退職)の緩い連携の会が月1回発行しているニュースレター50回記念(2023年5月号)に駄文を綴りましたが、それを元にして加筆、修正して作成しましたものです。
2026年3月でニュースレターに投稿を始めて7年が経過し、私も85歳と人生の最終期に入りました。
ニュースレターの投稿文は、輪読会で継続している資料「生きるとは何か」(170)と共用しています。これをご縁のあった方々にも配布してますので、専門分野の記事や用語は最小限として大幅に修正しています。
これらの活動を続けられたのも、家族や妻の支えがあったお陰と感謝しています。
最近の活動事例
2025年6月23日から7月5日に、趣味の書画展として個展を開催しました。15点展示しましたが、その中の2点を紹介します。以前に描いた絵に、人生の言葉を書き入れた作品です。


左の書画は、雪国の厳しい環境で、そこを人間成長の道場として生活している人の水墨画です。
右の書画は、日常生活で利用している坂道の絵ですが、そこに日々是好日と筆を入れ、
今この時が大切と書きました。生きているのは、何気ない「今この時」しかありません。
そこには時々刻々と変化する無常の時が流れています。
