生きるとは何か - No.93

塵も積もれば山となる

2019年8月3日発行

 1.一瞬先はわからない人生

7月末に初めて本を出版しました。その本を手にしたときに、ささやかな努力の跡が、そこには目に見える形であるのを実感できました。小さなことでも、目的を持って継続することで何らかの結果がでるものだと思いました。長年にわたり続けることができたことは、本当に幸せなことであるとも気づきました。

7年間月一度ですが、仲間と続けていた輪読会資料を整理、編集し単行本として自費出版いたしました。

400頁と少し厚くなりましたが、
第一章 仏教の根本には科学がある
第二章 自然が育む身体と心
第三章 禅で説く本来の自己
第四章 テーラワーダ仏教は釈尊の教え
としてまとめました。生きていることの本質を考えるときの参考になれなると思っています。手に取って読んでいただければ幸いです。

考えてみると、今ここに生きていることが非常に有難いことであると思わざるをえません。なぜかと言うとこれか、この先外出して交通事故に遭うことだってありますし、大地震がきて被災することもあります。縁起でもないことを言うと思われるかもしれません。しかし、最近のニュースを見れば、高齢者がブレーキとアクセルを踏み間違い、その暴走車に激突され亡くなった方がいました。また過去の例では東日本大震災や熊本地震などのように、突然の大震災に遭われて亡くなった多くの方々がいます。自分に降りかからないと、理由もなし自分は大丈夫だと他人ごとで終わっています。

一瞬先は何が起こるか分からないのです。生きていることは、「今ここ」しかないことの事実に、目覚めることが重要だと思います。過去は過ぎ去って今はないのであり、未来はいまだ来ていません。私たちは勝手に予定を立てているだけです。行動する限り何らかの結果が生まれてきます。生きていることは苦しみや悲しみ、憎しみや怒りの感情に支配されています。当然、楽しい時もありますが、長続きしません。苦しみや楽しみが打ち寄せる波のように次々と押し寄せています。

2.「業」を理解することは大切

仏教では「業」(ごう)または「カルマ」という考え方があります。毎日の生活で、身体を使っての行為、言葉による行為、意志が伴う行為をすることで自分を表現しています。行為をするとそこには感情が生じ、いやな感情も好ましい感情も、そのときすぐにリアクションに結びつかなくても心に記憶され、蓄積して何らかの働きをする。この働きを「業(カルマ)」と呼んでいます。業に関する解説として、スマナサーラ長老の著書に「業/苦/死」(サンガ、2011年)に分かりやすい説明がありましたので引用します。

 仏教の「業(カルマ)」の定義は、「意志をもって行う行為とその結果」というものです。つまり、「業(カルマ)」について学ぶということは、自分が幸福になるために、あるいは不幸にならないために、どのように心と身体の行為を管理していけばいいのか勉強することなのです。(p21)

人生には「流れがありますね。この世に生まれてきて、その瞬間からず~っと流れて、流れて変化していきます。そうやって流れて生きていくと、途中で、ふと「どうしてこうなったんだろう?」と、疑問に思うときがあります。そのとき、「業(カルマ)」という概念が入ってくるのです。(p22)

 命、生き物が業を相続するのです。生まれる瞬間に、業という生かされるエネルギーを相続してこの世で生命が現れます。この世といっても、人間のことだけではありません。人間の世界はもちろん、犬の世界でも猫の世界でも、虫でも、どんな世界でも生命が生まれる瞬間、けっこう財産を相続して生命が生まれます。この財産を「業」というのです。
正確にいえば、いわゆる「生かされているエネルギー」「生きるエネルギー」です。
                               (p30)

しかし、釈尊は「業」については考えてはいけないといっている。なぜかと言うと、過去の話であり、データだから人間には考えきれないことであるとのことです。考えてみると当然なことだと納得がいくと思います。私たちがこの世に生まれるときには,既に過去の膨大な「業」を背負っているのです。私がここに存在するということは、遠い先祖からDNAを引き継いでいて、両親も環境も自分が決めたものではありません。あらゆる過去の記憶が刷り込まれているこの身体と心です。過去の全てが蓄積されて今があるのです。スマナサーラ長老の「命とは業のことです」という言葉は理解できると思います。

人生の舵を操作するのは自分
 業は、業だけではたらくわけではなく、意志も環境も関係します。私たちは業を気にする必要はないのです。たとえ業が善くなくても、舵を操作することで生きる道を変えられます。操縦桿を握っているのは、自分なのです。自分の人生を、正しく自分の好きな方向へ操縦すればよろしいのです。それが業のいちばん大事なポイントです。
(p75)

 釈尊は説いています、意志こそが業だと。意志なら、自分でいくらでも、どうとでもできます。やるか、やらないか、当たり前のごとくやめるか、とことんやるのか・・・・。自分で自分の意志の管理は完ぺきにできます。ですから、意志そのものが業なのです。(p77)

大事なのは行為の業
 業には、意味が二つあります。「業(カルマ)」といえば、行為という意味も、結果という意味もあります。一つは過去で、もう一つは行為です。
結果・過去としての業については、起きた出来事、起きた結果はそのままに放っておくしかありません。業によって生まれたのですから、今さら女になりたい、男になりたい、翼が欲しいとか、そんなことを思っても意味がありません。「もう、結果が出ました」ということで終わりです。(略)
 やるべきことは、結果が出たあとの行為に気をつけることです。次の、どのように意志という舵を操作して前に進むか、ということです。(略)
 過去の業は無視する、放っておくことにするのです。過去ではなく、つねに「今、こうなってしまったから、どうしましょう」という、たったそれだけに集中します。個人個人がそれをつねに考えて行動すれば、ものごとはものすごくうまくいくのです。(p78)

ここまで業についてみてきました。最初に例に挙げた暴走車により死亡したときも、大震災で被災したときも、結果はでたのです。過去のものとして終わったことに悩まないで、これからどうしようかと対策や処理を考えるしかありません。スマナサーラ長老は「微塵も悩んではだめです。なぜなら、悩むことは行為です。美しい行いではありません。悪行為です」と説いています。普通に考えると無情で冷たい対応だと思えますが、考えてみてください、感情を制御できないとそこには苦しみがあるだけです。
今回出版した本にも書きましたが、ミャンマーの瞑想センターを訪問して、長老に皆でご挨拶に伺い、仏教で大事なことを聞いたときの答えがとてもシンプルなものでした。
「悪行為をするな、善行為して、心を清くしなさい」との教えで、もう少し高尚な答えを期待した自分がいました。しかし、業のことを書いてきて、このシンプルな教えが真理なのだと思える自分に気づきました。

  過去は無限です、考える必要はない。今ここで善なる行為をしなさい。

人生は日々の積み重ねであるからこそ、今ここでする行為が大切で、その結果、塵も積もれば山となり意味のある成果に結びつくと思いました。

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