生きるとは何か - No.20-2

真理はまわり道しないと分からない

2020年2月10日発行

般若心経のこと
やるべき仕事や究めるべき研究をしている時は、それに没頭し充実感を感じています。しかし、第一線を離れ、シニア世代になると自由な時間が増えるに従い、不満足な、物足りない心になります。そのような時に、人生をふり返り仏教でも勉強してみようかと思い、名前が知られている般若心経の注釈や解説した本を買い求めますが、途中で断念してしまうことが多々あります。これは私自身の経験でもあります。かなりの回り道をしたと思っています。
何故そうなるのか、それは本質的な自然の原理や摂理についての認識がないからだと思います。人間も含め、あらゆる生命が生きているということの現実は、無常という状況にあることを、はっきりと意識できていない、あるいは気づいていないことが根本にあると思います。
この真理は、仏教用語では「諸行無常」といい、すべての事象は留まることなく、変化していることを現しています。私というこの存在も、刻一刻と変わって同じ状態ということは無いのであり、固定した実体(常住な変化しない実体)としての私はないのです。今、生きている私の身体も父母の出会いという縁があり、結婚したことで生まれ、幼年、青年、壮年、老年と変化し続けています。そこには変わらない私はないのです。多分、記憶の中に私は存在しています。
「私」という意識や観念があると、苦しみや怒り、憎しみ、嫉妬などの心が生じるのです。私のもの、俺のものなど、物事に執着する心が少なくなるにつれて心は穏やかで、やすらかな状況が生まれるのです。
手元にある般若心経の現代語訳を中村元、紀野一義訳注『般若心経・金剛般若心経』(岩波文庫、1984年)より最初の数節を引用します。

全智者である覚った人に礼したてまつる。
求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れて物質的現象であるのではない。(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ、実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。

           金剛輪寺の十一面観音立像

五つの構成要素(眼、耳、鼻、舌、身)を「色」といい、色には実体がないことは、私と思っている身体には、「実体のある私」は存在しないということです。色即是空です。

智慧とは何か
この経典のなかで「深遠な智慧の完成」の意味を明確にすることは、経典の全文を理解するために大切です。智慧ということについて、A.スマナサーラ、名越康文共著『浄心への道順』(サンガ、2016年)のなかで、スマナサーラ長老は以下のように言っています。要約して引用します。

・生きるということは、無常であって変化であって、変化といえば物ではない、物の性質なんですね。それが智慧でわかった瞬間に心の煩悩と執着が、ぜんぶ消えてしまうのです。我々に執着があるのは、幻覚があるからなのですね。幻覚というものは、頭でつくるものですから、変化しません。幻覚が消えて、本当に物質と心のはたらきが見えてくれば、それらは変化することで、「ある」ように認識するだけ、変化がなかったら認識できない、そういうことを発見します。
・認識さえも変化します。本を読んでも、心が変化しなかったら読んだことになりません。勉強するということは、心が変化するということなのです。すべて、なんでもそういうこと。だから、何を観ても無常の世界です。(p104)

・いろいろな問題を解決しなくてはいけないとき、瞑想で訓練した自我、錯覚のない精神になったとたん、そちらに答えがあるのです。智慧というのはそういうもので、「智慧」という何かではないのです。自我がない、それだけです。(p140)
・知識というのはなんとなく「もの」みたいなもので、ためていくといっぱいになる。いっぱいになったら、ぐちゃぐちゃになる。もう必要なときに取り出せなくもなる。智慧というのは、知識と違ってなくすことなのです。だから何もない状態なのです。ということは、何でもできる状態なのです。そこで何かをやったらそのときの形をとってまた、無に戻るのです。仏教用語での「無」なんです。
・(名越):日本語で「無」というと「欠乏」とか、なにかそういうふうにとらえがちですが。仏教の「無」は、「無」という一つの状況ですよね。「ない」ということではなくて。
・「ない」ということじゃないんです。まあ、たとえていえば分かりやすいと思います。空気は、そのときそのとき、形をとります。この部屋はこの部屋の形にぴったりはまっている。空気は失敗しないですね。空気自体に形がないからですね。水も同じ。智慧というのは水の形、空気の形なのです。(p142)

上記のスマナサーラ長老の言葉で、「智慧でわかった瞬間に心の煩悩と執着が、ぜんぶ消えてしまうのです」と言われてもそうですかと信じるのは難しいと思います。私も経験しいるわけではないので、長老の言葉が頷けるよう努力しようと思っています。
般若心経で説いているポイントは、この世のすべては、変化している無常の姿であるから、執着するに値するものはなにもないと知ること。この智慧の眼をもって自我(自己中心的で強い執着心をもった私)をなくすことで、捉われのない心になり、あらゆる苦しみから救われる(「度一切苦厄」)ということではないのでしょうか。
生きている身体は、老齢になれば足腰は弱り、あちこちが不自由になり、病気にもなり、現実的な悩み、苦しみや痛みはあります。しかし、これは自然な現象であると見きわめて、それを受け入れて、許容できる心の余裕が生まれると、安らいだ人生観を持てると説いていると思います。

禅僧が伝える真理
禅僧というと厳しい修行して悟る人たちだとのイメージがありますが、そうとばかりではありません。調べて見ると、厳しい修行をしたが、それは無駄骨であったと言い切っている禅僧がいました。盤珪 永琢(ばんけい ようたく)(1622年―1693年)は、江戸時代前期の臨済宗の僧。不生禅を唱え、やさしい言葉で大名から庶民にいたるまで広く法を説いたとあります。本人は書き物を残していませんが、弟子が書きとめてくれたお陰で、大切な説法がのこっています。詳細は鈴木大拙編校『盤珪禅師語録』(岩波文庫、1941年)に述べられています。

盤珪は若い頃に中国の古典「大学」を学ぶなかで、「大学の道は明徳を明らかにする」の一文につまずき、明徳を明らかにするためには、禅僧から坐禅することを勧められ、厳しい坐禅修行に打ち込んだ様子が語られています。
今宿 葦著『 不生の仏心: 盤珪禅師の法話から学ぶ 』(Kindle版) には現代語訳がありましたので、どのような修行をして、何を悟ったのか要約して示します。

無駄骨を折った修行
・そこの山で7日間も食べず、岩の上に着物を引いて命も惜しまず、自然に転げ落ちるまで坐禅をしました。誰かが食べ物を持ってくるわけでもないので何日も何日も食事しないことが多かったのです。
・その後も修行に打ち込み、それでも納得の得られる答えは得られず、念仏三昧の日を送ったり、神社の拝殿に坐り七日間不眠断食の修行をしたり、また数ヶ月川の中に立ったままという修行もした。あまり熱心に坐禅したため、尻が破れ両股は爛れたと語っています。その後、病気がだんだん重くなり体が衰弱して痰を吐くようになってしまいました。
・もう死ぬ覚悟をして思うことは、「ああ、是非もないことだが、別に残り多いことはないけれども、ただ常日頃の願望が成就しないまま死んでしまうことかな」とばかり思っていました。ところがその時ひょっと「一切事は不生で整うのに、今まで知ることができないでいたことは、なんと無駄骨を折ったことよ」と思い、ようやくこれまでの間違いを知ったわけです。
・親の産み付けてくださった不生の仏心は、霊明なものであって、日ごろは気づかないでいるのです。あなたが仏心を知ることができないので、仏心のままでおらずに、仏心をあれに変え、これに変えてしまっているので、何を聞いても耳に入らないのです。

「不生の仏心」に気づいたのです。この不生とは、生まれたときから備わっていて、後から生じたものではないから「不生」ということです。また、盤珪は仏心を次のように言っています。今宿氏は次のように解説しています。

  仏心とは宇宙を貫くエネルギー
・仏心 とは 森羅万象 すべて の 根本 という こと です。 だから、 仏( ブッダ) という こと を 例 に 取る と、 歴史 上 の 人物 で ある ブッダ が 生まれ て 仏心 が 生まれ た のでは なく、 仏心 が あっ て ブッダ が 生まれ た という こと になり ます。 実際、 ブッダ が 発見 し た のも 盤 珪 の 発見 し た のと 同じ 不生 の 仏心 で ある という こと なの です。 だから、 仏心 に 安住 する 人 は 諸仏 の 本 に 居る と いっ ても いい の です。
不生 の 仏心 が すべて の 始まり で あり、 未だ 滅 せ ず に 働い て いる の です から 生滅 という 論理 が 現実 問題 として 成り立ち ませ ん。 宇宙 を 貫く エネルギー と 同じ よう な もの だ から です。
・不生 とは 生まれ も せ ず 死 にも せ ず、 宇宙 が 生まれ た とき から 存在 し、 そのまま の 姿 で 働き、 今 まで 来 て いる の です。 この 働き は その 人 が 死ぬ と 一旦 その 肉体 から 離れ て しまい ます が、 滅する こと も あり ませ ん。 なぜなら それ は 一 なる もの で 無限 の 宇宙 全体 に 働い て いる ので、 一人 の 人間 が 死ん だ からと いっ て、 なく なる もの では ない の です。
・今、 この 場 に おら れる 皆さん は、 一人 として 凡夫( つまらない 人間) では ない の です。 皆、 一人一人、 不生 の 仏心 ばかり です。 自分 は 凡夫 だ と 思う 方 が おら れ たら ここ へ 出 て ください。 どの よう に 凡夫 か言って み なさい。
つまり、 人間 は「 思い」 の ない 状態 では 皆、 不生 の 仏心 だけで 生き て いる の です。 しかし、 思い を 出し た とたん に 凡夫 に なっ て しまう の です。
一切 の 迷い も 同じ こと で、 向こう から やってくる もの に対して、 自我 が 実在 する もの と 勘違い し、 仏心 を 修羅 に仕立て替えして 迷い ます。 やってくる もの が いかなる もの で あろ う が、執着せず 捉 われず ただ 仏心 の まま で い れば 迷い は あり ませ ん。 これ が 常に 不生 の 仏心 で 居る という もの なの です。

この盤珪の説法は、これまで「生きるとは何か」で述べていた真理と同じです。私たちは五つの感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身)を通して感受したものに、自我によって余分な「思い」を付け加えてものごとを「ありにままに」見ることができないでいるのです。このことに気づくまでに盤珪を長い年月(14年と言われる)を費やしているのです。
がむしゃらな厳しい修行などをしなくても、聞法こそが悟りへの道であるといっています。正しい教えを繰り返し聞くことで理解が深まり、真理を知ることができることを示してくれています。ありのままにみるとこの身心は宇宙とつながり、自然の摂理が生み出した、素晴らしい生命体であると気づくのです。

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