生きるとは何か - No.20-3

日本を救ったブッダの言葉

2020年2月29日発行

1945年8月15日に日本は無条件降伏をしました。 毎年、この日はTVや新聞で終戦記念日として報道され、長い悲惨な戦争が終わったと安堵した日であると記憶しています。しかし、国際的には終戦処理として敗戦国にたいする賠償や責任の追及が始まった日でもあります。その大きな節目が1951年9月6日に開催されたサンフランシスコ講和会議です。戦勝国である連合軍は日本に対して厳しい賠償と制裁処置を求めて、日本分割統治案もあったなかで、サンフランシスコに参集した各国の代表に対して、スリランカ国(当時:セイロン)のジャヤワルダナ元スリランカ大統領(当時:財務大臣)が、日本の真の独立が必要であるとブッダの言葉を引用して感動的な演説をしています。その時、会場からの賞賛の拍手が鳴りやまなかったと伝えられています。日本国は49ヶ国と条約に署名し、独立国としての歩みが始まるのです。

日本国との平和条約に署名する吉田茂首席全権と全権委員
(写真はウィキペディア(日本国との平和条約)より転載)

今日でも中学や高校で現代日本の歴史の一コマとしてサンフランシスコ講和会議のことは学びますが、多くは受験用に年代を記憶している程度の理解で内容に踏み込むことはほとんどないのが実状であると思います。図書館に行き中学社会の歴史教科書を調べて見ました。どのように教えられているか参考のため記載します。

独立と国際社会への復帰
朝鮮戦争が始まると、アメリカは東アジアでの日本の役割を重んじ、日本との講和を急ぎました。1951(昭和26)年9月、アメリカのサンフランシスコで52ヶ国による講和会議が開かれ、日本からは吉田茂首相らが出席しました。しかし、戦争の最大の被害国である中国は招かれず、インド、ビルマは参加せず、ソ連など3か国は条約草案に反対して、調印を拒否しました。日本国内でも、すべての連合国と講和を結ぶべきだという批判がありました。日本は、サンフランシスコ平和条約の締結により、独立を回復しました。
〔『中学社会 歴史 未来をひらく』(教育出版、2012)〕238頁

そこには、会議に大きな影響を与えたジャヤワルダナ元スリランカ大統領の演説は触れられることはありません。
40年後、この歴史的事実に感銘した多くの方々が賛同して、1991年4月に鎌倉大仏殿高徳院の境内に「ジャヤワルダナ前スリランカ大統領の顕彰碑」が建立されています。この碑について私が知ったのは昨年(2019年)の10月です。
その後に、縁あって演説の全文を見る機会があり、読んでみて感動を覚えました。国際状況が混沌としている今だからこそ、演説の内容を多くの人に知ってもらいたいと思いました。演説の全文を主体にしたパンフレットを作成し、大仏様にお参りくる多くの皆さんに手に取って読んでもらえるようにしたいと考えて行動に移しました。
長くなりますが、取りまとめた原稿案を紹介します。
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 鎌倉大仏殿高徳院「ジャヤワルダナ前スリランカ大統領顕彰碑」
      に託された平和への願い   
             日本を救ったブッダの言葉
                人はただ愛によってのみ
           憎しみを越えられる
           人は憎しみによっては
           憎しみを越えられない
               (法句経五)

             

                                          ジャヤワルダナ前スリランカ大統領の顕彰碑

                      目次

        1.顕彰碑が語るブッダの言葉と今日の日本社会

       「J.R.ジャヤワルダナ前スリランカ大統領顕彰碑誌」全文

     2.1951年9月6日 サンフランシスコ講和会議の演説全文

     3.日本とスリランカの友好の礎を築いたJ.R.ジャヤワルダナ

     4.世界の平和を願った中村元先生

     5.編集の経過 

   (氏名は慣用的に用いられているジャヤワルダナに統一して標記)

1.      顕彰碑が語るブッダの言葉と今日の日本社会
現在の日本社会を繁栄に導いてくれた、分岐点にブッダの言葉が大きな力となった歴史的事例の証拠として1991年に建立された顕彰碑があります。J.R.ジャヤワルダナ元スリランカ大統領が1951年サンフランシスコ講和会議でなされた演説は、戦後の日本の運命に大きな影響を与えました。そこにはブッダの言葉を引用して、アジアの将来にとって、完全に独立した自由な日本が必要であると、一部の国が主張する日本分割案を退けているのです。今日の私たちも決して忘れてはならない歴史的な出来事です。この業績を末永く留めるために、鎌倉大仏殿高徳院の佐藤蜜雄住職を推進委員会長として、上坂元一人氏、野田卯一氏、中村元氏ほか多くの皆さまの賛同を頂き建立されました。
戦後、輝かしい発展を遂げ、1991年にはバブル経済はピークとなりますが、その後の経済成長は鈍化し、高齢化率も世界一高く、次世代を担う若者の人口は減少し、就労者の多くが低賃金を余儀なくされています。その結果、人間関係が疎遠化し、相手を思いやる心の余裕が失われ、不満が蓄積し、些細なことで感情を爆発させる人々が増えています。世界に目を向けてみると、2020年に入り、各国が自国の経済を優先し、国際的な競争や紛争が激化しています。
このような時にこそ、再び、サンフランシスコ講和会議のジャヤワルダナ元スリランカ大統領の演説の全文を読んで、ブッダの言葉が与える意味と影響力の大きさを実感して欲しいと思います。まずは裏面に刻まれた顕彰碑誌を紹介します。

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J・R・ジャヤワルダナ前スリランカ大統領顕彰碑誌

 この石碑は、1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコで開かれた対日講和会議で日本と日本国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示された、スリランカ民主社会主義共和国のジュニアス・リチャード・ジャヤワルダナ前大統領を称えて、心からなる感謝と報恩の意を表すために建てられたものです。
ジャヤワルダナ前大統領は、この講和会議の演説に表記碑文のブッダの言葉を引用されました。そのパーリ語原文に即した経典の完訳は次の通りであります。
『実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。』(「ダンマパダ」五)
ジャヤワルダナ前大統領は、講和会議出席各国代表に向かって日本に対する寛容と愛情を説き、日本に対してスリランカ国(当時セイロン)は賠償請求を放棄することを宣言されました。さらに「アジアの将来にとって、完全に独立した自由な日本が必要である」と強調して一部の国々の主張した日本分割案に真っ向から反対し、これらを退けられたのであります。
今から40年前のことですが、当時、日本国民はこの演説に大いに励まされ、勇気づけられ、今日の平和と繁栄に連なる戦後復興の第一歩を踏み出したのです。今、除幕式の行われるこの石碑は、21世紀の日本を創り担う若い世代に贈る、慈悲と共生の理想を示す碑でもあります。
この石碑から新しい平和な世界が生まれでることを確信します。
                1991年(平成3年)4月28日
                ジャヤワルダナ前スリランカ大統領
                  顕彰碑建立委員会
                  東京大学名誉教授
                  東方学院長   中村 元 謹誌

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サンフランシスコ講和条約時の演説の全文を読むと、寛容の心を以て、日本と日本人を勇気づけ励ましてくれたジャヤワルダナ元大統領の真心を感じます。その功績により現在の日本の独立と繁栄があることをはっきりと知ることができます。 次に、演説の全文を記載します。

2.  1951年9月6日 サンフランシスコ講和会議
      ジャヤワルダナ氏 演説全文

副大統領と友人の方々
講和条約の調印に際して、世界からお集りいただいた51か国*の皆さまの前で、セイロン政府の見解を述べる機会を与えられたことは光栄であると存じます。私の声明は条約を承認すべき根拠と承認反対への釈明を表すものです。私はセイロン代表として政府の意に沿って意見を述べますが、それはアジアの人が日本の将来に抱く全般的な感情を述べていると確信しています。
この条約が最終草案に至るまでの経緯を述べる必要はありません。アメリカ代表ダレス氏、イギリス代表ヤンガー氏が1945年8月、日本の無条件降伏からの出来事との詳細を述べられました。しかし、草案の作成にあたって四大国の間に重大な意見の対立があったことを見過ごしてはなりません。ソ連は四大国のみ、アメリカ、イギリス、支那、ソ連の外相が起案に当り、それ以外の国が加わる場合は拒否権が与えられるべきだと強く主張。イギリスは、自治領の国々と相談すべきであると主張し、アメリカも同意しました。この両国は、日本との戦争に参加したすべての国々においても実際の条約について深刻な意見の相克があり、軍国日本の台頭を懸念する国々、日本軍による侵略による被害と恐怖を未だに忘れ難いとう国々もありました。
 日本の独立を認める提案が最初に審議されたのは、1950年1月コロンボで開かれたイギリス連邦外相会議でした。この会議では日本を南アジア・東南アジア地域の一部としてとらえました。アジアは、世界の富と人口の大部分を占めながら、数世紀にわたって苦難の道を歩み、近年になって再び自由を獲得した地域であることを考慮すべきであり、第1に日本の独立、第2に南アジア・東南アジアの人々の経済的・社会的な発展を重視すべきであるという2つの考え方に達しました。
 皆さまが手にされている条約は、会議の成果であり、その一部はセイロン政府の意向と合致し、また合致していない部分もあります。しかし、現時点において日本との講和を望む国々の最大公約数の同意を表していると私は断言します。
 草案の作成に対して、セイロン、インド、パキスタンなどのアジアの国々が共に取り組んだ主題は日本の自由です。この条約はそれを完全に具現したものです。しかし日本の自由が及ぶ領土など若干の問題も残されています。自由は、本州、北海道、九州、四国に限られるべきか、小さな島々に及ぶべきか、もし島々を除外するならばその帰属をどう考えるか?台湾の地は1943年カイロ宣言に基づき支那に返すべきか? どちらの支那政府に? 支那を講和会議に呼ぶべきか? 呼ぶのはどちらの政府か? 日本から賠償をとるべきか? その金額は? 自衛の力を得るまで日本はいかにして自国を守るか?
 日本の自由に関わる大部分について、私たちは最終的に同意に達し、この条約はそれを具現化しています。他の問題に関しては深刻な意見の対立があるのも事実ですが、条約は多数意見を表すものでありセイロン政府は小異を捨て大同につく道を選びます。条約のすべてに賛同しなくても、それが条約署名を拒否する理由にはならないと思います。なぜならこの条約の主題は、自由にして独立の日本にあるからです。
 これらの諸問題は日本の自由が認められれば必ず解決されるものであり、日本の自由なくして解決されません。自由があってこそ日本は、例えば、国連を通じ世界の自由諸国と討論を交わし、諸問題を検討し、早期に結論に達することができます。この条約に署名することで、日本が望むなら(この会議に不参加の)支那政府やインドとも友好条約を結ぶことができるわけで、そうなれば私たちにとって喜ばしいことです。私たちがこの条約に署名しなければこれらの希望はどれも結実しないでしょう。
 なぜアジアの国々が日本の自由を熱望するか? それは長年にわたる日本との密接な関係と、アジアの人々の日本に対する尊敬の念があるからです。日本だけがアジアの国々の中で強力にして自由な独立国であり、私たちは、指導者として友人として日本を信頼しています。この戦争中に、日本が唱えたアジア共栄のスローガンは、アジアの人々の心を動かし、自国が解放される望みから、ビルマ、インド、インドネシアの指導者には日本に呼応をした人もいました。
 セイロンは幸いにも侵略は受けませんでしたが、空爆や東南アジア駐留部隊により被害を受け、連合国唯一の生ゴム生産国であるわが国の生ゴム産業への多大な損害は、当然賠償されるべきものです。しかしセイロンは、それを放棄します。なぜならブッダの教えを信ずるからです。ブッダは「憎しみは憎しむことによって消えず、愛することによって消え去る」と諭されました。
 仏教の開祖ブッダの教義は、南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、秦国、インドネシア及びセイロンへと広がり、さらに北方ヒマラヤ山脈を越えて、チベット、支那ついに日本にまで及びました。このようにして数百年にわたり共通の教義が今も存在していることを、私は先週この会議に出席する途中で日本に立ち寄り発見しました。日本の知事、指導者、一般民衆は現在もブッダの平和の教えを信仰し、将来もその教えに従って生きる希望を持っていることを感じました。私たちは日本にその機会を与えねばなりません。
 ソ連は日本の自由の制限を提案していますが、これまで申し上げた理由から私はこの見解に同調できません。ソ連が日本に課そうとしている制限は、日本が自由国家として当然保持すべき自衛権、その他、ここに出席されている各国代表の大多数のみならず欠席の諸国にとっても受託できないもの、この講和条約そのものを無意味にするものです。特にインドは絶対に反対するはずです。
カイロ・ポツダム宣言に反し、琉球、小笠原が日本に返還されるべきであるとソ連が要求するのであれば、なぜソ連は千島列島や南樺太を返還しないのでしょうか? ソ連の修正条項は不可思議なものです。それは日本国民の表現・報道・出版の基本的自由、信仰・政見・会合の自由を制限することを言及していますが、それこそソ連の人々が享受したいと願う自由ではないでしょうか。
 この条約は、日本に宗主権と平等と尊厳を復活させるものであり、制限を加えればそれは不可能となります。この条約の目的は日本を自由な国とし、日本の復活に何ら制限を課さず、外部からの侵略や国内の騒乱に対して自衛の軍備を組織させ、その能力が備わるまで、自国防衛のために友好国の援助を求めやすくし、経済に影響を与える賠償金を日本から取り立てないようにするものです。
 この条約は、敗戦国・日本に対して公正かつ寛大なるものです。私たちは、日本に友情の手を差し伸べ、今日、書き上げる最終ページをもって人類の歴史におけるこの章を閉じ、新たな章をはじめ、明日から最初のページを開くときより、日本の人々と私たちが互いに人類の尊厳を享受し、平和と繁栄に向かって進むことを心から祈念します。

{『錫蘭島 スリランカ The Bridge of Culture vol. 01 セレンディピティに出会う』
(創英社/三省堂書店、2019年)から転記}
(*:中学社会教科書と異なりますが、原文のまま記載)

 この演説の感動は、現在の日本人の私たちにも直に伝わってきます。感銘を覚えた多くの方々がいますが、スリランカ駐日大使からも心温まるメーセージ(2019年12月10日に拝受)を頂いていますので、次に紹介します。なを、大使は2019年12月31日に離任されました。 

3.       日本とスリランカの友好の礎を築いたJ.R.ジャヤワルダナ
 日本を訪れたスリランカ人、またその反対にスリランカを訪れた日本人の多くの方が、お互いの国にとても親近感を感じるようです。それは、日本もスリランカも中国やインドといった大国の近くに位置する島国で、ともに仏教を文化の背景に持っているということによるのかもしれません。私も、かつて日本に留学したこともあり、大の親日家の一人です。この両国の友好の礎を築いた、私が心から尊敬するジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ(1906年~1996年)をご紹介させていただきます。
 スリランカでは「J.R.」の愛称で知られる、J.R.ジャヤワルダナは、イギリス領セイロン(現・スリランカ)の最高裁判事の長男として生まれました。優秀な成績でコロンボ法科大学を卒業し、法律家となりましたが、その後、政治の道へと転身、1948年、セイロンがイギリスから独立した際、初代の財務大臣となります。
 そして、1951年、第二次世界大戦の対日講和会議であるサンフランシスコ講和会議にセイロン代表として出席しました。この講和会議は、連合国に占領されている日本の独立を認めるかどうかを議論し、すでに日本の独立を認める講和条約案がまとめられていましたが、一部の国の反対によってなかなか審議が進みませんでした。その時、セイロン代表として颯爽と演台に立ったジャヤワルダナは、「日本の掲げた理想に、独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないでほしい」と述べ、さらに、「憎悪は憎悪によって止むことはなく、ただ慈愛によってのみ止む」(英訳:Hatred ceases not by hatred, but by love.)とい法句経(ダンマ・パダ)という経典からの一説を引用して、セイロンは日本に賠償請求をしないことを宣言したのでした。彼の演説が終わると賞賛の拍手は鳴りやまず、議場は一転、講和条約締結へと動いたのです。余談ですが、私は日本に赴任して、1200年前に書かれた本に、伝教大師最澄という高僧がこの法句経の同じ一節を述べられていたことを知って驚きました。このことでも両国の精神の深いつながりを知ることができるでしょう。
 この講和条約を境に日本は空前の経済発展を遂げましたが、その中で昭和天皇はこの時のジャヤワルダナの演説に感謝され、スリランカに多くの援助がなされました。こうした両国の助け合いを見て、大統領になったジャヤワルダナには日本に恩を売る目論見があったかのように言う者がおりましたが、彼には決してそのような気持ちは全くありませんでした。彼は、少年時代、コロンボに寄港した当時皇太子だった昭和天皇のお乗りになった船を見に行くほど、日本に憧れ、尊敬していたのです。イギリスの統治下にあって、自国の伝統文化が衰退するセイロンでは、同じアジアにあって西欧の列強に対して互角に渡り合い、自分たちの文化と伝統を守る日本は輝いて見えたのでした。その証拠に、彼の死後、遺言によって、右目はスリランカ人に、左目は日本人に、それぞれの角膜が移植されました。
 彼が礎を築いた両国の友好が、今後も末永く続くことを願ってやみません。

         スリランカ民主社会主義共和国 駐日特命全権大使
         ダンミカ・ガンガーナート・デイサーナーヤカ

また、顕彰碑誌を残された中村元先生の平和への願いを、後任の前田専學理事長から預かりましたので紹介します。

4.世界の平和を願った中村元先生

 私の恩師中村元先生は1912(大正元)年に生まれ、1999(平成11)年に亡くなりました。中村先生はいわゆる戦争の世紀といわれる20世紀が生んだ思想家でありました。
 中村先生の考えによれば、「人間は思想なしには生きていくことが出来ない。思想などはいらないのだということ自体が、また一つの思想である。」「思想の推移、変化というものは、人間の社会において、人間の現実生活に即しておこなわれたものであるに違いない。…そこでは心の中での深刻な葛藤抗争があったに違いない。思想史家はその心の中の苦悩の呻き声をききとらねばならぬ。」そしてその思想は自然に現れ出るのではなくて、「つねに歴史的社会的諸条件のなかで生まれてくるものであり、思想と歴史・社会との連関の問題も非常に重要である」とし、さらに宗教は人間の生み出した最も偉大な思想体系であると中村先生は考えておられました。
 中村先生は異なった伝統を持つ東洋と西洋の思想のみならず、ユーラシア大陸全域に見られた思想の比較研究を非凡な語学の才を駆使して大々的に進めました。その結果集められた膨大な資料の綿密な分析から東洋でも西洋でもほとんど同じ問題が論じられており、しかも従来劣っていると考えられていた東洋思想は、決してそのようなことはなく、西洋思想と平行的な発展過程を辿っていることを明らかにし、前人未踏の『世界思想史』全四巻を完成されました。これは視野を廣く世界にとり、比較という手法による、世界のだれも試みたことのない普遍的な思想史の最初の不滅の金字塔でした。そして『世界思想史』全四巻の最終的な結論として、中村先生は次のように申します:
「われわれは以上の考察によって人類の一体なることを知りえた。思想は種々の形で表明されるけれども、人間性は一つである。今後世界は一つになるであろう。今日では従前のいかなる時期におけるよりも以上に異なった文化圏の間の相互理解が敏速に行われている。…..世界の哲学宗教思想史に関するこのような研究が、地球全体にわたる思想の見通しに役立ち、世界の諸民族の間の相互理解を育てて、それによって人類は一つであるという理念を確立しうるにいたることを、せつに願うものである。」
と、このように中村先生は、その強い願いを、次世代に託してその『世界思想史』を結んでおられます。
  では、今後われわれは、如何に生きるべきでしょうか。将来一つになるであろうこの世界において、しかし現在は怨念と我執が渦巻き、テロの恐怖におののくこの世界において、一挙に人類を滅亡できる威力を持つ核爆弾を盾にして、動物の縄張り争いのように牙を向き合っているこの現実の世界において、どのように生きていけばよいのでしょうか?
 残念ながらこの問に対する回答は、自然科学や技術が如何に発達しようとも、自然科学や技術からは得られません。自然科学や技術は人類を滅亡できる核爆弾をつくることはできても、如何に生きるべきかに答えてくれません。中村先生は、その解答を、その半生を捧げて探求されてきた人文科学の一分野である東洋の思想・精神的伝統の中に、真剣に求めました。中村先生は:
「私は長い間、東洋の思想・精神的伝統の探究をしてまいりました。それを貫く〈東洋のこころ〉と言うものがあるとすれば、それは一体何か。その底を流れるものを求めての半生であったといっても過言ではないように思います。その〈何か〉とは、ひとり東洋のみのものではなく、普く、広く、世界の人々にいきわたっているものに違いない。そのような確信をもつものです。その何かこそ、「温かなこころ」ということではないかと思うのです。」と述べておられます。
 そして中村先生は、平成5年、ある講演会の折に、「人間の永遠の真理というものは何かということになりますと、それは人々に対する温かいこころということが言えるかと思うのです。」「これは仏教の伝統的な言葉で申しますと慈悲ということですね。ここに教えの真髄が極まっているのではないかと思うのです。」と、力強く、聴衆に語りかけられました。
 その講演会の後、1995(平成7)年、中村82歳の誕生日に、東京の多磨墓地にあるお墓に、「ブッダのことば」「慈しみ」の石碑を建立することを発願されました。しかしその翌年に病気治療のために実現が遅れ、1997(平成9)年の令夫人の誕生日、すなわち5月4日に完成したのではないかと思います。
 墓石は黒光りのする南インド産のクンナムで、碑文は場所の制約もあり、原始仏典『スッタニパータ』のことばの精髄を汲み取って意訳され、それを令夫人が筆で書かれ、中村先生の世界平和実現への熱い願いを込めて、ご夫妻で「如何に生きるべきか」を、後世の人々に刻み残されたものと思われます。
 その「ブッダのことば:慈しみ」とは:
 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、
     安穏であれ、安楽であれ。
 一切の生きとし生けるものは幸せであれ。
     何びとも他人を欺いてはならない。
 たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。
     互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
 この慈しみの心づかいを、しっかりとたもて。
であります。
 この僅か二年後、すなわち1999(平成11)年10月10日に、中村は享年86歳で亡くなりました。
 文明の発達により、一つの島国のようになった狭い地球上で私共はどのように生きていけばよいのでしょうか?中村先生は、その解答を、東洋の思想・精神的伝統の中に求めました。その結果得られたものは「温かなこころ」でした。それは仏教のことばで言えば「慈悲」でした。「慈しみのこころ」でした。
 このインドに由来する慈悲は、仏教特有のものではありません。中国の孔子の思想の中心的な理念である「仁」に相当するものであります。慈悲はまた寛容の精神や和の精神やキリスト教の愛とも相通ずるものがあります。「温かいこころ」「慈しみのこころ」もって、世界平和の実現に向けて一歩でも、二歩でも進もうではありませんか。

2020年元旦
                   公益財団法人中村元東方研究所                                     理事長 前田專學  

5.編集の経過

 このパンフレット作成の経緯を簡単に述べます。令和元年10月10日発行の「東方だより」に前田理事長が中村先生の世界平和の願いとして紹介されたJ・R・ジャヤワルダナ元スリランカ大統領顕彰碑誌についての記事を読んで、早速、鎌倉大仏殿に行きました。そこには29年前に建立された顕彰碑がひっそりと立っていますが、参拝者の多くの人は気づかないか、チラリと見るだけで行き交っていました。裏面の文章も水ゴケが付着し判読が出来にくい状況でした。
その後、縁あって高田達雄氏(元東京都市大学教授)がダンミカ大使から頂いた本を借用して演説の全文を読んだところ、これは是非とも多くに人たちに知ってもらう価値があると思い、行動に移しました。すると直ぐに、ダンミカ大使と深い縁のある浮岳亮仁氏(天台宗泉福寺副住職)とつながり、大使からのメッセージを頂くことができました。また、前田理事長には中村先生の平和への願いの記述をお願いしました。これで終了かと思っている時、スリランカに関心のある友人から企画発起人である上坂元一人氏(元アジア文化交流協会事務局長)が顕彰碑建立について書かれた本、上坂元一人著『大仏さまと愛の顕彰碑-ジャヤワルダナ元スリランカ大統領と日本』(かまくら春秋社、2019年)を上梓されていることを知りました。そこには高徳院に建立することになった経緯や除幕式にはジャヤワルダナ元スリランカ大統領夫妻が出席された様子などの詳細がすべて記録されています。素晴らしく、興味深い本です。
 その後は友人の紹介と案内で、上坂元氏ならびに高徳院を訪問して快諾を得ることができました。
繰り返すようですが、ジャヤワルダナ元スリランカ大統領の演説に込められたブッダの慈しみの言葉は、宗教の異なる多くの代表者の心にも届いたことを裏付けています。現在の世界が自国中心主義を前面に出して、覇権争いの様相になり、弱者や他国移民には厳しい社会になっています。
このような状況であればこそ、演説で述べられたブッダの言葉と通じる中村元先生の「ブッダのことば:慈しみ」に示された「温かなこころ」「慈しみのこころ」を持つことが、人間が幸せに至る道であることを知ってほしいとの思いで編集しました。このパンフレットを、多くの皆さまに、気楽に手に取って読んでいただけることを願っています。

                  後藤 一敏(東方学院研究会員)

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以上がパンフレットの原稿案です。最終的内は顕彰碑や大仏の写真も入れて印刷する予定です。
上坂元氏の著書『大仏さまと愛の顕彰碑』に保坂俊司氏が「ジャヤワルダナ師顕彰碑の意義」と題して書かれた文のなかに、次のような言葉があります。

・ブッダの慈悲を実践するには、強い意志と実行力、そしてその思いを他者に伝える説得力が必要である。これらを体現して初めて、エスカレートする憎しみ連鎖は止み、怒り、怨み、そして恐怖などから解放されるのである。これが、ブッダが悟った永遠の真理である、ということである。そしてジャヤワルダナ師は、日本への敵意渦巻くサンフランシスコ講和会議の場で実践したということである。
・彼は、日本がこの教えを実践できる社会、つまり仏教的な文化を共有できる国であるかを、わざわざその目で確かめに、サンフランシスコ講和会議に参列する直前、日本を訪れ調査をしているのである。   

今日の私たちも、ジャヤワルダナ師の真摯な演説に心からの感謝を忘れてはならないと思います。

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