1.庶民に愛される円空
江戸時代に庶民の中に仏の教えを広めるために、一人の僧侶が、素朴な木彫の仏像や神像を各地の寺や神社に奉納し、さらには村人の求めに応じて小さな仏像を与え、それが村のお堂に祀られています。
遊行の僧円空(1632~95)は1666年以降、30年各地を巡って修業を続け、造仏に励み、生涯で12万体の仏像を作ったと言われています。現存する仏像は五千体を超えるとのことです。
2013年1月下旬に東京国立博物館で開催されていた「飛騨の円空」―(千光寺とその周辺の足跡)展をみてきました。今回の展示は飛騨の千光寺とその周辺の寺院で所蔵している161体が展示されていました。円空仏のほとんどは丸太から薪を割るように縦に割って造っています。荒々しく、簡素な彫刻であるが、滋味を持った表情には多くの人を魅了する力があります。人々の心の支えになるように求めに応じて、観音菩薩や不動明王などいろいろな姿の神像、仏像が造くられています。写真は思惟菩薩像です。
インターネットで検索して「円空連合/円空の魅力 」サイトから簡潔で分かりやすい解説がなされていましたので、その一部を以下に添付します。
作品の魅力について
円空仏は、約300年も昔の作品であるにも関わらず、今でも人々の心を打つ魅力にふれています。それは慈愛に満ちた「微笑」の魅力です。これは一般的に柔らかい表情の多い観音菩薩・地蔵菩薩だけでなく、厳めしい表情が多いとされる不動明王や仁王像に至るまで口元に微笑が込められています。また、仏像製作を重ねるうちに造形の簡略化が進み、荒削りながらもそれが逆に木目や節や割れ目といった、木という素材の魅力をダイナミックに引き出しています。
造形の簡略化は同時に仏像の量産を可能にし、本格的な仏閣に奉る仏像だけでなく、多くの人々が身近に拝観できる仏像も提供しました。道端に転がっていそうな木の破片を削った、いわゆる「木っ端仏」も円空は多く製作していますが、それらが飢えや疫病や災害に苦しんでいた当時の民衆に安らぎを与えてくれたことは想像に難くありません。木の破片から生まれた荒削りな仏像にもかかわらず、その多くは捨てられることなく現在まで大切に受け継がれています。
円空の生涯
美濃国(現在の岐阜県)に生まれた円空は、早くから小僧として仏門に入りましたが、長良川の洪水で母を失ったのを契機に寺院を出て窟ごもりや山岳修行するようになりました。
そして、美濃国を拠点としながらも修行を重るため全国を行脚し、各地の寺院の住職や民衆たちと交流を深めました。そして民衆を苦しみから救うため、悩み苦しむ人には菩薩像を、病に苦しむ人には薬師像を、災害に苦しむ人には不動明王像を、干ばつに苦しむ人には竜王像を、限りある命を救うために阿弥陀像などを刻み歩いたようです。その足跡は美濃・飛騨・近隣の愛知・滋賀・長野などにとどまらず、近畿・関東・東北・北海道にまで及びます。
やがて、一所不住ともいわれた円空は、自ら再興した岐阜県関市の弥勒寺に落ち着くようになり、そこを拠点に仏像製作の旅を続けました。その頃には円空にも弟子が付くようになっていました。
誓願の一二万体の仏像を彫り還暦を迎えた円空は、母の命を奪った長良川を入定の地と決め、弥勒寺境内の同川の畔で即身仏として素懐を遂げました。
(www.enku.jp/charm/index.htmlより)
円空の仏像は大寺院の金色に輝く精緻な姿とはかけ離れたもので、彫刻としては荒削りで、普通の基準ではうまいとは言えないものです。しかし、300年の時をへてなお多くの仏像が残っています。それは、今ここで救いを求めている人々が、仏像に対面していると、癒しと安らぎの心が生まれる力を持った木像であると思います。円空は菩薩の行として仏像や神像を彫ったので、それを得た人たちは円空の心を思い、大切に祀り、後世に引き継いだのではないかと考えます。
2.円空の宗教性と生きざま
円空の現実の姿を知りたいと、調べて見たところ、哲学者の梅原 猛著「歓喜する円空」(新潮社、2006年)に、円空が多くの和歌を残していて、そについての解説がありましたので、一部ですが引用します。そこには円空の心情が読み取れます。
皆人ハ 仏に成(る)と 願(ひ)つつ まことになれる けさの杉の木
皆人が仏になることを願っているのはいったい誰なのであろうか。「まこと」という言葉は「仏」と同義であると見てよい。山の杉の木はすでに仏であり、杉の木そのものが、すべての人が仏になれると願っているのである。円空はその杉の木の願いを聞いて、杉を「まこと」すなはち「仏」にする。それによってすべての人が仏になることを、円空は杉とともに強く願っているのである。
このような言葉は「天台本覚論」の真髄とでも言うべきものである。天台密教はここにきて、密教精神の本質をよく理解したすばらしい芸術家を生みだしたのである。 (342頁)幾度も 承(たまわる)餅ハ 神なるか かつかつ守(る)玉のおもなか
「かつかつ守る玉のおもかな」というは、やっと命を守ったという意味であろう。ひもじい日々が続き、生き続けられるかどうか分からない。そういう時に誰かが餅をくれた。その餅はすばらしい餅であり、神ではないかと円空は喜んでいるのである。餅のおかげでどうにか命は永らえた、ありがたい、ありがたいとう歌であろう。このようなありがたさは、飽食の時代である現代ではまったく忘れ去られている。
年のよの さすか蜂屋の 串の柿 密とみまかふ 甘口にして
「年のよ」すなわち大晦日に、円空は名物の「蜂屋の串柿」をもらったのであろう。それが蜜のように甘かったと円空は大いに喜んでいるのである。おそらく甘いものを食べるのは久しぶりであったのであろう。円空の食生活もひどいものであったが、衣の生活もまたひどいものであった。 ( 同、350頁)
寒きよの みよの衣も うすくして あさけゆふけの 燈もなし
飛騨の冬は寒い。その寒い冬に円空は薄い袈裟しか着ていない。良寛も、灯もない部屋で寒い冬の夜を過ごす孤独を歌っている。しかし円空は良寛以上に、灯もない部屋で薄い衣をまとって寒い冬の夜を過ごす孤独を味わったと思われる。 (同、331頁)
現代の私たちが想像する以上の赤貧の生活の中で、あのような木彫を彫り続けた円空であればこそ、心に沁みる思いが伝わるのでしょうか。
梅原 猛氏の思い
円空が作った12万体の仏像は今や数千体しか残らないが、それらは芸術的にもすばらしい作品であり、そしてまた仏法のすばらしさを教えるものとなったのである。私もまた円空仏と出会うことによって、いっそう仏教の教えの深さが分かるようになった。円空に対して深い感謝を捧げたい。
私は円空の歌集を何度か読んだが、最初は半分も理解できなかった。然しさらに何度も読むうちに意味が分かるようになり、最初はまったく分からなかった歌もすばらしいと思うようになった。特に私の心に感動を与えた歌がある。老いぬれば 残れる春の 花なるか 世に荘厳(けだか)き、遊ぶ文章(たまつき)
これは今の私の心境をぴたりと表したものである。円空がこの歌を作ったのは六十歳頃であると思われる。私はそれよりもさらに二十年の歳をとり、八十歳を超えた。そのような老人にも春があるのである。私はまだ花を咲かせたい。学問の花、芸術の花を咲かせたい。学問や芸術はしょせん遊びなのである。遊びのない学問や芸術はつまらない。作者が無心になって遊んでいるような学問や芸術でなくして、どうして人を喜ばせることができようか。
円空の仏像制作は地球の異変を鎮め、人間ばかりかすべての衆生を救いたいためであった。菩薩は人を救うことを遊びとしている。私もこの歳になってようやく菩薩の遊び、円空の遊びが分かってきた。その遊びは荘厳な遊びである。遊びと荘厳、それはふつうは結びつかない概念であるが、それが結びついたところに円空の芸術の秘密があろう。 ( 同、343頁)
梅原氏の人生に対する深さを感じます。丁度、この円空の文章を追記している時(2019年1月)に梅原氏が92歳で死去したとのニュースが流れていました。
日常の生活の中で、不安や苦しみを抱えている民衆は、僧侶のような修行をすることもできずにいるのが普通です。人々は慈愛に満ちた木彫りの仏像を手にすることで、どれだけ癒され、救われることでしょう。当時の農民は貧困や干ばつなどの飢饉に苦しみ、封建制度下では救済の政治的体制もない状況です。円空はひたすら権力から離れたところで、庶民のために木端仏を造りながら祈りを奉げ、ひたむきに活動をしています。生きることで精一杯、苦しい生活をしている庶民の心の安寧を祈願している円空の行動は、大乗仏教の菩薩による利他行そのものです。
3.上座仏教の僧侶と民衆
時代も国も違いますが、庶民と共にある仏教の姿の一端を、カンボジアにある世界遺産アンコール遺跡を巡る旅行時(2014年2月)に、覗いて見る時間がありましたので紹介します。そこには、日本仏教の肩肘を張った修行とは異なったやわらかいや時間が流れているように感じました。
カンボジア、タイ、ベトナムなどの東南アジアの国々は上座仏教(テーラワーダ仏教)です。旅行で宿泊したホテルの二軒隣が仏教寺院でしたので、旅行の休息時間を利用して覗いてみました。午後二時過ぎに訪れると、日除けの布をわたした木陰で勉強会をしているところに出合いました。声をかけ写真を撮ってもよいか聞くと、気さくににっこりして、どうぞと言ってくれたので、しばらく横に立って授業の様子を観ていると席を勧められました。
生徒は六人で若い僧侶二名と近所の若者の四人(内女性が二名)で三〇代半ばの僧侶が中国語を教えていました。簡単な中国語の文章を教えていて、中国文の隣に同じ意味のクメール語を示し、中国語の漢字はその語順を分解して一字ごとに丁寧に語順が書かれています。また発音は反複練習をし、生徒たちは白板に書かれた先生の文字を熱心にノートに写し取っていました。午後の昼休み時間に年上の僧侶がボランテアで若い人の勉強をサポートしている様子でした。
もう少し、日常の様子を知りたいと思い、次の日の朝八時ころ再度訪ねてみると、若い僧侶四人が大きな木の下のテーブルで朝食を食べていました。また祭壇のある建屋のフロアーでは老僧が信者から食べ物の寄進を受けているところに出会いました。写真で分かるように、婦人が差し出した寄進物を前にして、老僧は当然のごとく坐り、斜め横にいる二人の老人と婦人が経を唱えていましたが、その間、老僧は黙って聞いていました。
上座仏教では食べ物は朝の托鉢と寄進によってなりたっているとのことです。僧侶は多くの戒律を守り、修行に専念し、一般の信者は布施をすることで、その徳をいただく関係になっています。
今回の若い現地ガイドさんも父親が亡くなった時、親を弔うために1週間この寺院で出家修行をしたと話していました。短期的な出家修行という制度のようなものがあり、僧侶として修行している時は戒律を守り、還俗すれば一般人として、戒律に拘束させることなく生活をしているようです。心に悩み、苦しみや人生の転機を迎えたときなど、費用の心配もなく、短期修行ができるようです。
彼からみると日本の僧侶は妻帯し、酒を飲み、戒律を守らないので僧侶としては違和感があるとのことです。僧侶として修行するなら、戒律を守り、酒を飲まず、妻帯はせず、修行に専念して、それができないなら、還俗すればよいとは至極当然のこのように思えます。修行の姿は、上座仏教の特徴で、僧侶は2600年前の釈尊の時代の修行様式を守っています。
(木陰での勉強会)
(布施を受ける僧侶)
日本と比較してみると
その土地の気候風土が宗教や文化に大きな影響を与えていることを、今回の旅行でみることができました。人間は生まれた時期(時代)と土地(国)によって、ほぼ運命が決まってしまうところがあります。自分から選ぶことはできません。与えられた条件からのスタートです。私は21世紀の日本に住んで、平均的な生活を送ることができています。今ここに生きている幸せに感謝したい気持ちです。
しかし、人がどれだけ幸福感を持てるかは、経済的な裕福さだけで決まるものではないと思います。現在の日本はカンボジアに比較すれば経済的に、格段の違いがあり、ほとんどの人が彼らの生活環境と比較すると裕福です。日本人の多くは、豊かになれば幸せが得られるとの思いで、仕事優先で働いてきました。30~40年前、右肩上がりの経済成長の中、全国民が経済的な中流意識を持ち、将来に希望を持っていた一時期がありました。だが現在は、気が付いてみると外見的には裕福になっていますが、格差は拡大し、いじめによる自殺や、契約社員制度で生活は不安定になり、無差別の通り魔的な犯罪などが頻繁に起こっています。社会情勢が不安定化して、安全も脅かされています。
世界がグローバル化の波にのみ込まれ、規制緩和やボウダーレス化によって、経済は成長したといわれています。しかし、多くの国民にとって経済成長した実感がどれほどあるのかは疑問です。なぜかと言うと、人は何時になっても欲望が衰えることはなく、現状に満足することはありません。日本はいま、曲がり角に立っているようなる感じがします。世界の外にも目を向けながら、自分の心を深く見つめ、心を向上する努力が大切と感じています。人格や心の向上には導いてくれる指導者が必要です。その任には伝統がある僧侶が適任ですが、俗人と変わらない生活をしている現状では、尊敬を勝ち得ることが難しいと思われます。当然、素晴らしい方もいます。よき出会いが肝心です。