生きるとは何か - No.20-4

見えない敵との戦い

2020年4月1日発行

昨年12月末から新型コロナウイルスの感染症が中国で蔓延し始めたとのニュースを他人ごととして聞いていました。2月に入ると中国は爆発的感染拡大で地方都市の閉鎖、3月にはヨーロッパに飛び火し、イタリアでは局地的に急激な感染拡大(オーバーシュート)が発生し、医療崩壊したとも言われています。世界中に蔓延しWHOはパンデミック宣言をし、東京オリンピックも延期されることがきまりました。
僅か3ケ月前にこのような状況になると誰が予想できたろうか。目に見えない極微のウイルスによって世界経済は崩壊の危機に瀕しています。人類は今までに、このようなウイルスによる危機を何度も経験し、多くの感染者や死者を出していますが、局地的な感染拡大で終わって、全世界に蔓延することはありませんでした。しかし、科学技術の発達で交通網が著しく整備され、人々の往来が自由で便利になった現在では、世界中にウイルスが急速に拡散する原因となっています。人間の築き上げた文明の負の一面を見る思いです。文明とは、何と脆いものかと思わざるを得ない悲惨な状況です。パリやニューヨークのメイーンストリートは、外出禁止で人の気配が消えています。
この未曾有の危機を乗り越えて、人類は一つ、皆兄弟であるという理想の世界に向かってもらいたいものです。見えない敵の封じ込めの戦いですから、助け合い、協力することで良い関係が築ける絶好の機会なので、大国の指導者が感情に任せた発言をするようでは情けないことだと思っていましたが、3月27日に中国からアメリカに電話会談の申し入れがあり、医療機器や治療経験を提供するとのニュースが流れました。是非とも、世界的な難局を乗り越えて関係改善が進む一歩となることを期待します。
最前線の医療現場で活動している医療関係者の献身的な行為には頭の下がる思いです。また、各国の研究機関がワクチンや治療薬の研究開発を精力的に行っています。その成果が、早い時期にもたらされることに恐れと不安を抱えながら待つしかありません。

恐れと不安を克服するブッダの教え
誰でも見えない新型コロナウイルスに対し、恐れや不安を抱いて生活しています。家に閉じこもっていると、様々な心配や不安が大きくなることもあります。我々シニア世代は、体力も落ち、持病を持っていると、免疫機能が衰えていますので、感染すると死につながる危険が大きくなります。特に「死への恐怖」は万人に共通して最も強い恐れです。
ブッダは「生きることは苦しみであり、苦しみを生みだす原因は、「私」があるという自我の意識で,強い執着心である。すべてのものごとは無常であり、常に変化し留まることなく、去ってゆくものである」と説いています。この教えを実感として身に付けるための具体的に実践方法を示しています。
それは、瞑想の対象として、「老いること、病気になること、死ぬこと、好きなものは変化して離れていくこと、業(因果応報)のことを常に観察する」ことです。

サールナート出土 5世紀

常に観察するべき5つの真理
1. 老いること。
「私は歳をとる。歳をとることからは誰も逃れられない。」
という真理です。
ふり返ってみるといつの間にか老齢になっています。若い頃の活躍は記憶のなかに
夢のように残っているだけです。この身体は無常の流れです。
2.病気になること。
「私は病気になる。病気からは逃れられない。」という真理です。
若くして不治の病気になる人もいれば、日頃の不摂生で糖尿病や高血圧などの生活習慣病で
苦しむ人もいます。人生100年と言われる今は、長生きすると認知症の危険度も増えてきます。
3.死ぬということ。
「私はやがて死ぬ。死から逃れることはできない」
という真理です。
誰でも死は100%避けることはできません。いつ死ぬかわかりません。交通事故や、自然災害
で多くの死者がでています。新型コロナウイルスでは高齢者の死亡率が高いです。
4.愛するものから離れるということ。
「好きなものや、愛するものは離れてゆく」
という真理です。
好きな趣味や仕事で成果がでて、さらに追求したくても、どこかで手放すときがきます。
愛する妻子でも突然の別れがあります。好きであればあるほど苦しみは増します。
自我の執着をなくしてゆくと苦しみは薄れてゆきます。
5.自分の行為の結果は継続するということ。
「自分の行為のみが、蓄積して自分の持ち物として継続していく」
(業、因果応報)
という真理です。
行動(身)と言葉(口)と意思(意)によってなされた行為を含みます。自分が今何をするか、
選択して行動に移したことは経験として心に蓄積され、次の行動に影響を与える要因(種)
となります。良いことをすれば良い結果が生まれ、悪いことをすれば悪い結果が生じます。
善因善果、悪因悪果ですが、その行為が直ぐつながるかは分かりません。長い時間が経って
から結果がでることもあります。

私たちが生きているということは「無常な現象」なのです。現代の医療技術によってこの困難を乗り越えることができるでしょう。しかし、生老病死は避けて通れない生き物の定めです。私たちは、今、突然に襲ってきた見えないウイルスの爆発的拡散という激流に飲み込まれようとしている現実を眼のあたりにしています。個人としては、ブッダの説かれた「常に観察するべき5つの真理」を心に収めて、不安や怖れのない平静な対応をすることが求められていると思います。

以上は Dei Senior NET Newsletter(電気学会の電気絶縁材料関係のシニア連携ニュースレター)に私なりに簡略に解説しました記事です。より正しく理解して頂くために詳しくスマナサーラ長老の注釈した資料がありますのでを記載します。

スマナサーラ長老が説く初期仏教経典解説シリーズⅡ「瞑想経典編」(サンガ,2013 )
の中から関係する箇所をを抜粋しました。
以下は、経典のブッダ言葉とそれに対する長老の注釈です。

1. 老い

私は老いるものであり、老いという性質を乗り越えていない。
このことを常に観察するべきである。その意味は何か?
生命は若いとき若さにたいする酔いがあり、それによって身体で悪行為をし、言葉で悪行為をし、思考で悪行為をする。「私は老いるものである」ということを常に観察するなら、若さに対する酔いは消え、消えない場合は薄くなる。

・私たちは「老い」ということを乗り越えていません。生きているなら、「老い」は必ず通らねばならないものです。「老いる」ということは自然法則です。「生きる」ということは「老いる」ということです。人間は、若いとき「若さにたいする酔い」というものがあります。「若さ」に酔っていると、高慢になり、放逸になって、悪い行為をするようになります。いわゆる、身体で悪い行為をし、言葉で悪いことを話し、頭で悪いことを考えるのです。これはたいへん危険なことです。そうやってくだらないことに夢中になっている間にも、一日一日、年を取って老いているのです。若者はそのことにまったく気付いていません。
「老い」はどんな人にも必ずやってきます。どんなに美しくいたい、きれいで格好よく、強く いたいと望んでも、私たちは一日一日確実に老いているのです。
「老い」ということから逃れることはできません。

2. 病気

  私は病気になるものであり、病気という性質を乗り越えてはいない。
このことを常に観察するべきである。この意味は何か?
生命は健康なとき健康に対する酔いがあり、それによって身体で悪行為をし、言葉で悪行為をし、思考で悪行為をする。「私は病気になるものである」ということを常に観察するなら、健康に対する酔いは消え、消えない場合は薄くなる。

・人間は肉体を持ったら、必ず病気になります。病気といっても、仏教での病気の定義は世の中のものとは異なります。仏教では「手当てしないと死ぬ」ことを「病気」と言います。仏教的に見ますと、お腹がすくことも、のどが渇くことも病気です。お腹がすいたとき、もし手当をせずして何も食べなかったらどうなりますか? その状態が続くと、死んでしまいます。ですから、これを病気というのです。
生きること全体が病気でできています。身体の細胞は一つ一つが呼吸して栄養を取らないと、生命は生きていけません。それなのに「私は健康だ」などと高慢になって威張るのは、とんでもない無知でしょう。
自分の体力や健康に酔ってしまったら、どうなるでしょうか?他人のことに耳を傾けようとせず、頑固で乱暴になります。傲慢で放逸になり、身体でやってはいけない行為をし、口で言ってはいけないことを言い、頭で考えてはいけないことを考え、その結果として不幸になり、自分だけでなく周りの人たちも不幸に陥れます。

3. 死

  私は死ぬものであり、死という性質を乗り越えていない、このことを常に観察するべきである。この意味は何か?
生命には自分の命にたいする酔いがあり、それによって身体で悪行為をし、言葉で悪行為をし、思考で悪行為をする。「私は死ぬものである」ということを常に観察するなら、命にたいする酔いは消え、消えない場合は薄くなる。

・「生きる」ということが病気と老いでできているなら、最終的には身体は壊れるのに決まっています。それなのに、私たちは妄想の中で生きていますから、私たちの人生プログラムはいつでも「私は死なない」という前提でつくられています。私たちの計画や企画、希望、願望のすべては、「私は死なない」という前提に基づいてできています。いかに私たちは嘘の世界で生きていることがわかると思います。そこで「死は私の本質である」と、常に観察するようにすることです。私は生きているという「命に対する酔い」があります。いわゆる「生きること」に酔っていて、生きるためならなんでもやろうとするのです。これは若者や健康な人に限らず、すべての人にあるものです。「命に対する酔い」がもとでやる悪い行為は、死ぬまでやり続けます。    自分の命を脅かすようなことが起ったり、危険な目に遭ったり、面倒なことが起ったりすると、年齢に関係なく、悪い行為をやってしまうのです。
 生命は誰でも自分の命を愛しています。ですから、自分が殺されそうになったとき、殺される前に相手を殺したくなるのはごく自然にわいてくる衝動なのかもしれません。自然に「身を守ろう」とする衝動が働きます。しかし、問題は「だからしょうがない、ではない」ということです。いかなる理由であれ、たとえ身を守るための正当防衛であったとしても、もし他の生命の命を奪えば、自分が殺生の罪を犯したことになります。
 この点で、私たちは残酷な「輪廻」という恐ろしい罠にはめられるということがお分かりになるでしょう。輪廻の罠はとてつもなく恐ろしく、あまりにも残酷です。ですから、仏教では皆さんに「解脱しなさい」と教えているのです。

4. 私の好きなものはすべて変化し、離れていく

 私の好きなものはすべて変化し、離れていくものである。このことを常に観察するべきである。この意味は何か?
 生命には自分の好きなものにたいする愛着があり、それによって身体で悪行為をし、言葉で悪行為をし、思考で悪行為をする。「私の好きなものはすべて変化し、離れていくものである」と常に観察するなら、愛着は消え、消えない場合は薄くなる。

 ・私が好きなものとは「すべて私が好きで、欲しくて愛着があるもの」という意味です。その愛着しているすべてに、変化する性質があり、離れる性質があるのです。
自分の欲しいものや好きなものがそろっていると、楽しくて舞い上がり、その反対にその対象が変わったり、壊れたりすると、その反動でものすごくショックを受け、落ち込みます。ですから、最初から「すべてのものは変化する。だから舞い上がって調子に乗るべきでない」ということをしっかり理解しているなら、何かあってショックを受けた時でも、それほど落ち込むことはないでしょう。
本当に離れなければならない時がきたとき、常に観察している人は、心に強いショックを受けることもないでしょう。喪失感でこころが引き裂かれることもないでしょう。心は大きなダメージを受けないで済みます。

5. 業

  私は業で作られ、業を相続し、業から生まれ、業を親族とし、業に依存している。私の行為の結果は、善いことであれ悪いことであれ、私が受ける。このことを常に観察するべきである。この意味は何か?
生命は身体で悪行為をし、ことばで悪行為をし、思考で悪行為をする。業のことを常に観察するなら、あらゆる悪行為が断たれ、あるいは薄くなる。

・私というのは「業のみ」です。身体の細胞一個一個が、業でできているのです。業を親族とするという時の「親族」は遠いところでも近いところでもどこに住んでいても親族であって、その血縁が切れることはありません。「決して離れられない自分の親族」といえば「業」なのです。
業に依存しているとは、「頼れるものは業である」という意味です。生命が頼れるもの、助けになるものは自分の業なのです。それから、何か行為をしたとき、それが善いことであれ悪いことであれ、その結果は自分が相続します。「私=業」ですから、業を相続するのは当たり前のことです。誰も自分がやった行為の結果からは逃れることはできないのです。

 「業」について簡単に説明しますと、「業」というのは「行為」の意味で、行為そのものよりも「結果」を気にする場合は「業」というとのことです。人がある行為をすると、何らかの結果が生じます。その結果は心に蓄積され、次の行為を行うときに少なからず影響を与えます。あることを行い良い結果が出たり、悪い結果に終わったりしますが、それはそれまでにその人が積み重ねていた「行為=業」の結果です。人の運命はその人の過去の行為によって定まると言われています。普通、我々は業というと悪い意味で使われることが多いいですが、業は行為そのものなので悪いとも善いとも決まっていません。人は身体で、言葉で、意思で行為を表します。それゆえ私というのは「業のみ」とも言えます。

・この五つの真理
「老いること、病気になること、死ぬこと、好きなものは変化し、離れてくこと、業のこと」を常に観察することが私たちの生きるモット-であり、生きる路線です。しかし、俗世間から見ますと、そんなものは生きるモット-ではないと思うかもしれませんが、ですが、この五つの対象を観察することこそが、「人はどう生きるべきか」という問いに対する答えであり、完全な安全な道なのです。

・この五つの項目を暗記して、常に念頭において生きてみてください。これが人間の生き方の基盤になるものです。これは超越したブッダの智慧で語っていることですから、実践してみれば素晴らしく、この上のない結果が体験できるでしょう。

以上はスマナサーラ長老からのメッセージです。この説法で釈尊の教え(人生に対処する智慧)を知ることができます。人間は「生きたい」「死にたくない」という強い存在欲があり、誰でも死を考えたくないのです。また、手に入れた好きなものは離したくない、別れるのは嫌だと執着します。日常生活のなかで経験する種々の出来事において、常に「五つの真理」を観察して気づくことを実践しましょう。それにより心が徐々に清らかになって、心に大きな進化が起こり、「何を目指し、どう生きるべきか」という道が発見できると長老は語っています。
心が変容することを信じて、実践することが大切だと思います。その結果として、例えば、がんで余命を宣告されたり、災害で家族を亡くしたり、不慮の災難に遭ったときなどに、心の大きなショックや落ち込みが少なく、比較的平静を保つことが期待できます。最後は自分の死にいたる時に、どのように振る舞うかは定かでありませんが、しっかりとこの真理を心に刻み付けておくならば、慌てふためくことが少なくなると思います。

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