生きるとは何か - No.20-6

何を恐れていますか

2020年5月29日発行

  恐ろしいのは死の予感
目に見えない極微のウイルスによって、いとも簡単に人間の経済や政治、さらには日常の生活まで大混乱に陥っています。堅牢で立派に見える高層ビル群や網の目のような飛行航路、更には地上の高速鉄道や軽快な高速道路網を備えた近代的な国家があっけなく麻痺状態になってしまいました。これら眼に見える構造物や交通網は破壊されたわけでなく、利用が制限されただけで、感染が収束すれば元に戻るでしょう。しかし、経済のダメージにより倒産や大量の失業者を生みだし、人々が困窮して今後の生活の不安を抱えています。政府が補正予算を組んで対策をすすめていますが、欧州に比較すると対応が遅いので不安は解消できていません。
私たちに恐怖を与えているのは、生活苦もそうですが、いつ感染するかわからない不確かな状況と、もし感染したら重症化し最悪は死ぬことがあるという恐れです。人間は死ぬことを最も恐れます。現在はコロナウイルスにより死が身近に感じられて、生きているとは死と背中合わせであることを実感させられています。死ぬことが恐ろしいのです。

  死は日常の出来事です
しかし、考えてみてください、普段でも状況は同じなのです。毎日元気で仕事や学校に出かけても、不慮の災害に遭い亡くなることがあります。通勤途上駅の通路で無差別に突然に切りつけられて重傷や、殺害されてしまった事件。川崎市であったのは、学校指定の停留所でスクールバスを待っている小学生や付き添いの大人が切りつけられ死亡する事件などがありました。その他にも、多くの不慮の死亡事故があつたことを思い起こすことができますが、他人事として話を聞いています。その時は、可哀そうに運の悪いことと同情しますが、しばらくすると死の恐れは忘れ去っています。日常の出来事なのです。

  対応が分ると怖さはなくなる
交通事故での死亡を考えて見ると、日常生活における普通の出来事となっています。
今年1月から4月までの日本国内での交通事故を調べたところ、負傷者数123691人、死亡者数961人でした。新型コロナウイルスでは5月半ばで感染者数16433人、死亡者数784人です。同じ不慮の死であっても、交通事故の死は当たり前で、昨年より減少してよかったくらいの気持ちです。交通事故に遭った本人や親しい人を亡くした親族の悲しみや怒りは大きいのですが、多くの人は恐怖や恐ろしさの感情は生まれません。どうしてでしょうか。
車の運転に関しては交通ルールが規定され、ルールを破ると事故になりますが、お互いにルールに従って運転している限り、ほとんど事故は起こらないことを知っています。交通事故の負傷者数はコロナウイルス感染者数より一桁大きく、死者数も200人ちかく多いのですが日常生活に混乱は起こしていません。お互いにルールを守って、事故時の対処方法も分かってくると日常の出来事と心は冷静に対処しています。

  過度な危機感は不安を増幅する
5月半ばになると感染者数も減少して、外出自粛も緩和され心の余裕が生まれてきました。3月、4月頃は毎日、毎日のTVや新聞の報道で、この先感染者が急増して、医療崩壊が起こり大変なことになると危機感を煽っていましたので多くの方が不安と恐れを感じていました。誰が感染しているのか分からない状況での生活は、極度の緊張と危機感を感じて不安は増大します。PCR検査の閾値が高すぎて、症状が出ても検査ができないような体制が不安感を高めていました。少し余裕がでた今後はPCR検査の数を増やし、周囲の人たちが陰性と判明すれば行動はかなり自由になります。感染が始まった当初、和歌山県のある病院で感染者がでた時に、関係者全員のPCR検査を実施して素早く原状回復を図った事例もあります。今のコロナウイルス感染状態でも、PCR検査や抗体検査をしっかりして陰性者が確認されていれば、ライブハウスや居酒屋での三蜜状態でも問題はなくなるのです。
長期的には、抗体検査や治療薬が行きわたり、ワクチンが開発され集団免疫ができるまでは、以前の生活に戻ることは難しいのでしょう。しかし、過去をふり返れば、人類は危機的なウイルス感染を乗り越えてきています。少し長い目で見て、現在でも三蜜を避けて、マスク使用と帰宅後の手洗いを励行する新たなルールを守れば、過剰に恐れることはないと思います。漠然とした不安感や過度の恐れは、心が萎縮し、ストレスが増えて免疫力も低下するのではないでしょうか。感染ピークが過ぎて心に余裕が生まれてくると、この苦境を乗り越えるために、工夫を凝らし、智慧を出し合い助け合っているコミュニティーのニュースが聞こえてきます。助け合いの絆作りが生まれ始めているようです。新たな時代への幕開けにしたいものです。

  今の瞬間だけが現実なのです
私たちは先々のことを心配して心に不安を抱え込みます。もしコロナに感染したらどうしようとか心配して恐れます。しかし、今は家にいて元気にしているこの瞬間が現実なのです。先のことはあくまで想像で、妄想しているだけです。外出する時は感染症に対する新ルールができましたので、それを守っていれば心配する必要はありません。でも何が起こるか分からないでしょう、と反論する人もいますが、普通の状況で街に出ても、暴走車に巻き込まれて死亡する人もいますがそこまでは想定していないと思います。なぜ想定しないか、それは車の危険性を誰も理解しているから、運転手が居眠りや飲酒運転などでは、万が一そのようなことに会うかもしれないけれど、可能性はほとんどないと暗黙の了承があり、そこまで妄想を膨らませないのです。ものごとの特性や状況を理解していれば、妄想の割り込みは少なくなり、危険を感じたとしても、気持ちが落ち着いていれば、次から次へと連想ゲームのように心配を膨らませないと思います。今の瞬間だけが現実であるという事実を、人はあまり意識していません。今の瞬間の思いが、次の瞬間の行動につながっているのです。心配を持ち続けることは、心に不安の種を蒔いているようなものです。積極的に良い種まきをするよう心がけることです。

  仏教僧が説く「今を生きる」の意味
スリランカ出身の学僧ワールポラ・ラ-フラ著「ブッダが説いたこと」今江由郎訳、岩波文庫、2016)に同じ主旨の文章がありましたので引用します。「心の修養」という章で「身体的活動に関する心的修養」の節のなかに、重要で、実践的で有益なこととして、日常生活すること、話をすることに十分に意識し「注意」をすることである。と述べています。

・今この時点で、今行うことに集中する、ということである。これは、過去・未来を考えるべきでない、というのではない。その逆で、現在と今行うこととを関連させて、ふさわしいとき、ふさわしい場所で、過去・未来のことを考えるべきである、ということである。
一般に、人は自分が今行うことに、あるいは現在に生きていない。人は過去あるいは未来に生きている。人は今ここで何かをしているように見えても、頭の中ではどこか別のところで、問題や心配事を思い浮かべながら生きている。普通の場合には、それは過去の記憶であり、未来への願望であり、思惑である。それゆえに、人は現在、今している仕事が楽しめず、不満で、していることに全注意を集中できない。                  (156p)

例として、本を読みながら食事をしているサラリーマンらしき人がいるが、その彼は同時に二つのことをしているかもしれない。しかし、実際にはそのどちらもしていない。彼は無理しており、心が乱れており、していることを楽しんでいないで、この瞬間に人生を生きていないと言っています。私たちが普段していることなので反省させられます。

・人生から逃避しようとしても、できるものではない。生きている以上は、町の中であれ洞窟の中であれ、人は人生に直面し、人生を生きねばならない。本当の人生は、過ぎ去った、死んだ過去の記憶でもなく、まだ生まれていない未来の夢でもなく、この瞬間である。今の瞬間を生きる人は、本当の人生をいきており、もっとも幸せである。    (157p)

・気付きあるいは自覚といっても、「私はこれをしている」「私はあれをしている」といつも思い、意識することではない。その逆である。「私はこれをしている」と思う瞬間、あなたには自意識が生まれ、行っていることではなく、「私は存在する」という考えに生きている。その結果、行いはだめになる。あなたは自分を完全に忘れ、今行っていることに自分を没入しなければならない。」(158p)

      

今の瞬間を生きるために、大変重要なことが指摘されています。意識するときに「私が」という自意識が生まれないようにすることです。私がいるという「自我」があると、自己中心的な思考や妄想が入り込み、苦しみをつくる原因となります。しかし、言うは易く、実行は難しいことです。瞬間を生きるとは、ものごとは瞬間、瞬間に変化していることを意識できているということです。「すべての現象は無常である」という真理につながります。

  いつ死んでも、それはそのとき
覚ってもいない私が言っても納得し難いでしょうから、テーラワーダ仏教の長老であるA.スマナサーラ著「仏教は心の科学」(宝島社、2007年)から引用します。人は死を最も避けたいと思っています。しかし、常に死を念頭に置きなさいと長老は言います。これは元気で、まだ先は長いと思っている人にはこの瞑想はできるとのことです。

・生まれて一日で死ぬ生命がいる一方で、・・・微生物などを見ていると、生まれたその場で、こちらの目の前で死んでしまうのですが、それでもその生命はちゃんと寿命をまっとうしているのです。ちゃんと生まれて、大人になって、自分の仕事をして、子孫を残して死んでいるのです。
我々は寿命の長さを気にする必要はありません。長生きしたいという気持ちは、皆持っていますが、それがどういうことか理解していません。・・・幸福で死ぬのが惜しい人は、この世に対する執着がありませから、長生きしたくて、死ぬときに苦しむことになります。・・・
長生きしようという気持ちではなくて、人間としての役目を果たして、「いつ死んでも、それはそのときだ」と満足して生きることです。

・人は誰であろうとも、必ず死にます。死は歳を選びません。生きるのは大変ですが、死だけはいとも簡単に訪れる事実です。このことを理解して生きている人は、生きているうえでも平和で楽しく、落ち着いて生きているのです。人生のさまざまな失敗に悩んだり、苦しんだりしません。そこでとうとう死ぬときになっても、その人には驚きも、不思議も、恐怖感も何もありません。死は今までリハーサルしてきた出来事の本番にすぎないからです。微妙にも心が乱れることなく、幸福に死の瞬間を迎えることができます。(106p)

理屈では理解しているつもりでも、私たちはものごとに執着があり、その執着心は簡単にはなくすことができません。長生きして、あれもしたい、これもしたい、親しい人とは離れたくないなど、未練が山ほどあるのが普通です。仏教では執着を捨てることを説いています。新型コロナウイルスの感染に怯える本質は死の恐怖です。死は当たり前のことであると、元気なうちに心の訓練をして、危機感を伝える報道に、一喜一憂して日常生活が乱されることがなくなるようにしたいと思います。

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