生きるとは何か - No.20-7

もう一人の自分探しの旅

2020年7月1日発行

「私とは何ですか」と問うのは青臭い話のように思われるかもしれません。多くの人が、昔から繰り返し問いつづけている疑問です。しかし、自分とは何かと考えても、途中で諦めてしまっているのではないでしょうか。私などは、自分についての疑問が出てきたのはやっと50歳頃でした。なって何かを決めるにしても、いつも自分の都合が割り込んできて、公平に判断することの難しさに気づきました。どうして自己都合を優先する思考になるのかと思いましたが、それ以上深く自己を探求することもなく終わりました。転機になったのは、60歳過ぎて、旅行社が募集したインド仏跡旅行に参加して、添乗していた僧侶(浄土真宗)の方から、仏教の基本的な話を聞いたときでした。長いバス旅のなかで仏教のイロハであるブッダの覚った真理「四聖諦」の苦集滅道の話を分かり易く話され、新鮮な気持ちで聞いていました。そんな時に無常とは「常なるものが無い」ことなのだと気がつき、それまで無常とは平家物語にある「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり・・・」の驕る平家の儚い夢位にしか理解していませんでした。

無常を知ることで見えてきたもの
40歳頃より仏教書は乱読していましたが、一番肝心の「無常」ということの意味を真に解っていなかったわけです。今になって見てみると、平家物語の冒頭には、大変重要な仏教用語「諸行無常」がでていますが、それも漠然と見過ごしていたことになります。世の中のあらゆるものは留まることもなく、絶え間なく変化していく現象であるとの真理です。
この無常の真理に気づくと、目の前にあるすべてのものが一瞬一瞬に変わっていく姿が見える感じがします。自分自身も刻一刻と変化して、後戻りがなく、庭先に咲く自然の草花と同じであると思えてきます。
朝日新聞(2020年6月17日)の文芸欄に「福岡伸一の動的平衡 コロナ禍で見えてきた本質」と題して随筆が寄稿されていました。まえがきの部分で、下記のようなことが述べられています。

“自然”は私たちのごく身近にある。といっても近所の公園のことではない。私たちのもっとも近くにある自然とは自分の身体である。生命としての身体は、自分自身の所有物に見えて、決してこれを自ら制御下に置くことはできない。私たちは、いつ生まれ、どこで病を得、どのように死ぬか、知ることも選り好みすることもできない。
しかし、普段、都市の中にいる私たちはすっかりそのことを忘れて… どこまでも自らの意志で生きているように思いこんでいる。ここに本来の自然と、脳が創り出した自然の本質的な対立がある。

本来の自然は、制御できない現象であることを、すっかり忘れていると書かれていますが、普通に私たちは老齢になっても気づくこともなく暮らしています。何か特別な機会がないと、身体が自然そのものである事実を知ることはないと思います。日常は、自分の思い(自我)のままに振る舞って生活しています。例えば、好きだからと言って、自分の意志でしていると思っている酒の飲み過ぎや、甘いケーキの食べ放題、グルメ三昧などをしている人たちがなんと多いことか。その結果は自然の身体を損ねて病院通いとなり、老いや死を早めることに繋がります。しかし、多くの場合、脳の命ずるままや、脳の欲望に任せての行動であって、自分の意志は後付けで、実は無意識の状況で心に支配されているのです。

私自身が、身体は自然であると認識できたのは、以前、福岡氏の著書「動的平衡―生命はなぜそこに宿るか」(木楽舎、2009)を読んだからです。口から取り入れた食物が最少のアミノ酸にまで分解され、腸で吸収され血液の流れによって、全身の細胞に分配され生命を維持している、と知って驚きを覚えました。生命は、絶え間ない分解と合成が行われて、動的な平衡状態にあると説かれていました。
何ごとも、疑問を感じて、そこに意識を向け、注意して調べて見ないと分からないものです。

身体と心の関係は
身体については、福岡氏の解説である程度は理解されると思いますが、次の疑問は心とはどのようなものかを知る必要があります。
私たちは、今ここに生きて、泣いたり、喜んだり、悩んだり、怒ったりしている自分が全てであると思っています。喜怒哀楽が人生に彩を与えるから、生きることが素晴らしいのだという人もいます。ですが、ある日突然、愛する人との死別は耐え難い苦しみをもたらします。誰もがいずれ死が現実のことであり、この世のすべてから切り離されてしまうという不安感を持っています。しかし、自分はまだ先があると、他人事のようにしか思えないのです。
それは敢えて考えたくないから、生きていることは、死と背中合わせの不確実な日常であるとしっかりと捉えることをしていません。普段の生活では身体と心の関係を漠然としか認識していません。感情の赴くままに身体は動いてくれているという感覚です。

仏教の説く身体と心の定義
根拠をしっかりとするために、身体と心のことはA.スマナサーラ、藤本晃著「ブッダの実践心理学」(サンガ、2006)のアビダンマ講義シリーズの第一巻「物質の分析」と第二巻「心の分析」に説かれています。アビダンマとは釈尊の教えの基本的論理とのことです。
この本はスマナサーラ長老が「アビダンマ講座」として連続講義した内容を藤本氏がまとめたものです。全7巻として出版されています。その中から僅かですが、参考になるいくつかの言葉を要約して紹介します。

 物質(色)と心
・アビダンマでは、心は「対象を認識するはたらき」であると定義しています。認識とは、我々人間が考えているような大げさなものではありません。「知」だけの機能です。いわゆる「知ること」です。心を明確に区別して、理解したほうがよいと思います。
物質・物体ということは、だれでもよく知っている。多くの生命の身体も物体なのです。
… 知る機能のない物体は純粋な物質で、知る機能がついている物体は「身体」と言うのです。… この「知る」という機能によって「生きる」ということが成り立っているのです。
それぞれの身体が、環境を知るために情報を感じられる感受性を持っているのです。人間で言えば、眼耳鼻舌身という五つの場所が身体にある。それらのチャンネルを通して、色声香味触という情報(環境)を知るのです。(第二巻、16p)
・「心」とは、「知る」機能と理解しましたが、その心に溶け込んでいる様々な感情・衝動を示す仏教用語として「心所」を用います。心は水に例えられます。コーヒーも紅茶もミネラルウォーターも工場排水も、すべて「水」であることには変わりありません。しかしその水に溶け込んでいる成分によって区別されるのです。その成分にあたるのが、心所です。
我々が素朴に思い浮かべる「こころ」は、この心・心所を合わせたものです。
(第二巻、17p)

認識するだけなら一つですが、様々な感情の溶け込んだ心所は52種類あると説いています。私たちが普段使う「こころ」は認識するはたらきの心と感情の付随した心所を含めて使用しているとのことです。

 身体の感覚も心に生まれる心所
・身体の痛み、痛いという感情も、身体にあるのではなく、心にあるのです。身体は痛くも何ともないのですが、身体があって心が身体を認識する、その時、気持ちが良いと認識したり、気持ちが悪いと認識したり、痛いと認識したりします。この、痛みなどの感覚も全部、心所です。… 痛み、だるさ、身体の固さなどもこころが作る感情です。 (第一巻、61p)

ほんとかなと思うかもしれませんが、麻酔のことを考えれば納得できることです。

なかなか理解できない生命の「心」
・「生滅変化し続ける無常の現象で、一時的に現れている」という仏教の「心」、真実としての「心」には、たとえ仏教を勉強していても、なかなか肉薄できないようになっています。
アビダンマの真実である物質・心・心所のどこを探しても、永遠の魂や他の絶対的な存在は見つかりません。… 「真我、アートマン」「永遠の魂」といった実体論は、ゴミ概念として、仏教ではスタート地点から排除しているのです。
 ですから私は講義の最初に、「真我」「魂」といった考え方をきっちりと批判しておきたいのです。むしろ「真我」「魂」といった我々に骨がらみになっている固定概念をとことん論破することによってこそ、アビダンマの語る「心」の独自性、仏教の超越した智慧のすごさがありありと浮かび上がってくるのではないかと思います。 (第二巻、18、19p)

スマナサーラ長老が言うまでのなく、ほとんどの宗教は唯一の神や永遠の魂といった永遠に変化しない実体・絶対的な存在があると教えています。それを我々はボンヤリと信じています。科学技術の発達した現在では、永遠の天国や絶対の神、魂、阿弥陀如来などを実体として信じる人は少ないと思います。2600年前に釈尊は真実が何であるか明快に説いていました。

 変化し続ける連続を「常住」と見誤る
・身体も心も、川のようにどんどん流れていきます。我々は、それをなかなか理解しようとしません。でもちょっと考えれば、川のように、身体もどんどん流れて変化していくことが分かるのです。
・問題なのは、私たちが身体や、何よりも心の変化の速さについていけず、「私」という実感を感じてしまうことです。「これは『私』。これは『私の身体』。これは『私の考え』などと思ってしまうことが問題なのです。なぜなら、「私」は掴みどころのない、実体のない代物で、ただクルクルと変化して、消えて逃げるだけなのです。… 心も、身体や川などと一緒で、ただいろんな形のエネルギーの流れであって、「何も実体はない」と理解して欲しいのです。仏教心理学は、「永遠不滅の実体などどこにも存在しない」としっかり証明することが一つの目的になっているのです。(第二巻、21,22p)

見解とは何か。
・人間はいつでも何か意見・立場・見解を持って行動しています。そして「その見解は全て間違っている」と、仏教ではみているのです。… その見解とは何でしょうか。ほとんどすべての人は「ものは存在している。ものはいいものだ。生きていることは素晴らしい。私はいる。私に魂がある」という基本的な見解を持っています。… 見解の色眼鏡によって、我我々には物事が正しく見えなくなっています。事実が分からなくなっているのです。
「見解」とは、簡単に言えば、「無常を知らない」ということです。最も根本的な見として「物事が確実に存在する」という見が、人間を含めて全ての生命の心にいつでもあります。無常の真理の反対です。全ての生命は、無常だけは理解しません。… 「一切は無常だ」と分かったら、永遠という概念は自然に消えてしまうのです。(第二巻、63~65p)

もう一人の私を探し求めても「私」という実体はないと言われます。でも今ここに生きている「私」がいるではないかと思うのが実感であり現実です。この身体と心があって日々の生活をしているわけです。この「私」は探している私ではないのは分かります。自然の身体と心が無常であると理解することで「私」という自我を無くした自己を発見したところにもう「一人の私」が現れてくると思います。アビダンマを学んでも修行しなくてはいけませんとスマナサーラ長老は言います。

・学ぶだけでも、「よく分かりました、納得しました」と真実が分かったらすごく立派な人間になります。どんなものにも左右されない、誘惑されない、しっかりした智慧が生まれます。智慧が生まれますが、煩悩を断つためにはやっぱり、次に実践に入らなくてはいけません。ですからアビダンマは、人を修行に向かわせるための哲学なのです。… アビダンマの目的は、修行する気持ちを起こさせること、そして修行の過程において自分のこころをどう理解して進むかと、その道筋を示すことです。(第一巻、31p)

       

     ミャンマーの仏教遺跡と瞑想実践の旅で訪問した僧院で出会った風景
“午後からの試験に備える若い僧たち”

テーラワーダ仏教の国々では、写真で見るように瞑想実践と共に仏典の学びが重要視されています。自分の「こころ」がどのような仕組みなのか理解できていれば、感情に流されることも少なくなり、理性的な対処が可能になります。その結果、不慮の出来ごとも落ち着いた対応が出来るようになると思います。

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