生きるとは何か - No.20-12

人生は物語り

2020年12月1日発行

日本でも新型コロナウイルス蔓延の第三波が急拡大して、進めていた経済政策にも修正が余儀なくされています。GOTOトラベルで、普段はできない少しリッチな旅を楽しませてもらっています。庶民にとっては3月頃から外出自粛が続いて、溜まった鬱積を解放できた一時です。しかし、多くの人が移動し、会食の機会も増えことにより、ウイルスが拡散した模様です。楽しみの後には、苦しみが影のように寄り添っています。楽しみは一時的で、更なる楽しみを求めたくなり、実現しないと苦しみに変わります。楽しみの後で、不幸にしてコロナウイルスに感染したときは苦い経験の一コマとして、他の人に感染させないよう自粛してもらうしかありません。三蜜を避け、手洗い励行、マスク着用を護って自己防衛することでウイルスの侵入を防げるのですから慣れれば容易なことです。

鎌倉長谷寺の地蔵菩薩

早いもので、来年の年賀状を書く時期になりました。今年初めの年賀状は良き年でありますようにと願いを込めて友人知人に送っています。その時点で、誰がこのような世界的な新型コロナウイルスの蔓延を予測できたでしょうか。一寸先は闇との諺がありますが、先のことは本当にわかりません。
しかし、ハッキリしていることがあります。この文を書いている私と、読んでいる皆さんは、今ここに生きているということです。どのような状況の中にいるかは人それぞれ大きく異なりますが、呼吸をして生きていることを実感しているはずです。

こころの働きが生活をつくる

宗教ではあくまでも人間をみるときには、その人の「こころ」を問題にしています。しかし、人間は生物であり、生きているのは生物としての肉体があってのことです。この肉体は生まれたからには必ず死が訪れます。私という自分が死にたくないとこころで願って、切望しても身体は自然の摂理にそって滅んでいきます。私という存在は、この生物である身体があって生かされています。これは切り離すことのできない厳然たる事実です。私の身体は、「私という意識」が特別なことをしなくても、心臓は鼓動して血液を循環し、肺は呼吸して酸素を取り込んで、胃腸は消化吸収して養分を細胞に送り届けています。このように身体に注目してみていると、「私」という自分は、間借している人のようにも見えますが、こころが働かないと指一本も動かせません。日常の生活行動を支配しているのはこころの働きです。身体とこころは不可分な関係にあります。この関係性について論じた文章を読みましたので紹介します。

人生は語られるもの

人生について気付かされたことがあります。清水哲郎著「最後まで自分らしく生きるために」(NHKラジオテキスト、こころをよむ、2012年7月)に私という自分と肉体としての自分について分かりやすく述べられています。非常に参考になりましたので一部引用します。「人生は物語り」の視点を教えてくれています。

「人生」とは、人が周囲の人々と交流しながら送っている生活の経過全体をさし、どのような経過を辿って生きてきたのか、また、これからどのように生きようとしているかを、「物語り」として創りだしながら生きている、と述べています。


・「人生は物語られるもの」です。ある人の人生は、その人にとっての物語りとして言及されます。そもそも、物語られてこそ「人生」なのです。
一般的に「伝記」と訳される英語
biography”の言葉の成り立ちは「いのちの書籍(いのちについて書かれたもの)」、つまり「いのちの物語り」です。人生は、これまで《生きてきた》ものであると同時に、これからも《生きていく》という時の流れに沿って展開されるものです。
人生という物語りは、一人で創るものではありません。その人の周囲にいる人々の物語りと交差し、それらに支えられながら形成されていきます。ことに親しい人の物語りは、本人の物語りとお互いに影響し合い、浸透し合いながら、紡ぎだされていきます。
(8頁)

・人のいのちを見る時、私たちは必ずしも「物語られるいのち」に焦点を合わせているわけではありません。別の視線、別の焦点の合わせ方もあります。(略)医療従事者が働きかけている対象は《生物学的な生命》です。
私たちは、同じ人のいのちに向って「生物学的な生命」と「物語られるいのち」あるいは「身体としての人」と「人生を生きる人」という、二重の見方をしていることになります。              (9頁)

日常生活の中では楽しいこと、苦しいこと、悲しいことなどが次々と起きて生活に変化を生みだして人生が創られています。しかし、急病や事故などで生死が脅かされると、身体に注意が向いて病院で医師の治療に任せます。この時の医療従事者が働きかけている対象を《生物学的な生命》と定義しています。この違いを「生きている」と「生きる」という言葉で区別しています。

「生きている」と「生きる」

・人のいのちにおける「生物学的な生命」と「物語られるいのち」の違いは、<生きている>と<生きる>の違いとも言えます。<生きている>いのちは、私たちがそれを選んだということなしに、自ずと生じたものです。心臓が動き、全身に血液がまわり、末端の細胞まで栄養と酸素が補給されるといったこと、また、それによって身体全体が統合ある一つの個体として生き続けるということは、本人の意思から独立して進行しています。… 身体は<生きている>のであり、この場合の<生きている>は状態を表す動詞です。この意味で「生物学的(=身体的)な生命」とは<生きている>いのちであるということができるでしょう。
これに対して、「私は生きる」という時の<生きる>は、積極的な行為が継続的になされていることや、主体である私が時々刻々と生きる道を選び歩んでいることを語っています。         (10,11頁)

日常生活の中で、私たちはこころに従った身体があり、こころと身体の関係を漠然と一体なものであると思っています。しかし、身体は病気でもしない限りあまり意識しません。常にこころがすべてで、勝手に振る舞い、身体はこころに従って生きているような錯覚をしているのです。この本に示されているように、こころの働きと身体の活動を一度はっきりと認識したうえで、こころを主体にして見ているのだと知ることです。 それを「物語られるいのち」と捉えると日々の生活が意識の上に浮きあがり、物語りを創り出しているとの気持ちになり、意味を持った活動と思えきます。

円環的に捉える人生 

人生の捉え方について分かりやすい解説をされている文章に出会いました。現役の医師として多方面に活躍されている稲葉俊郎氏が季刊誌であるサンガジャパン21「輪廻と生命観」(サンガ、2015)の中で「いのちの歴史と未来の医療」と題して寄稿されています。そこでは病気だけを見る西洋医学でなく非西洋医学(東洋医学など)からも医療を論じて、ひとのからだは宇宙的ないのちの流れでつくられ、その根源にだれでもつながっているとの見方で人生を語っています。

・いのち(Life)を捉えるときに、自分が生きている人生だけの中で限定して捉えるか、自分が生まれる前も死んだ後も含めた大きな輪の中でとらえるのかで、大きく異なる。生まれる前を指して前世という言葉があり、死んだ後を指して死後という言葉がある。… これらの言葉は宗教性や思想性を帯びているだけに、言葉や概念自体に強い抵抗を持つ人も多い。… 大切なのは、言葉そのものにあるのではなく、自分の一生という狭い視点を超えた遥かないのちのつながりに思いを馳せることだと思う。
具体的には、ひとの「からだ」には、宇宙のあらゆる叡智が含まれていると、驚きや発見とともに日々感じている。「からだ」には数十億年、数百億年の情報が高度な形で圧縮保存されている。その圧縮された情報をうまく解凍して取り出せないから、暗号が解読できない。「いのち」という宇宙的なプロジェクトは今まで一度も途切れたことがなく、過去も現在も、そして未来へとも延々と続いている。今という瞬間は、その遥かなるいのちのつながりの最先端でもある。今存在しているものすべてがいのちの流れの最先端にいるからこそ、このいのちの流れをどちらの方向に向かわせるか、ということには大きな責任がある。   (229頁)

自分が生きている状態を、個人的な身体だけに焦点を当てて考えるのは普通のことです。少し広げて、取り巻く動植物などの自然環境や地域社会を構成する一員と捉えることはできます。しかし、自分が生まれる前や死後を含めて大きな輪の中にある「からだ」と捉え、いのちの流れを感じて、過去から未来へと続く今にいるのだと思いを馳せることもできます。今ここにいる私たちは、いのちの最先端にいることになるのですから宇宙的な雄大さも感じられます。

・からだは、精密で精妙で奇跡的な仕組みにより成立している。それは一朝一夕にできるものではなく、遥かな宇宙的な時間のつながりの中で少しずつ改変して変化して受け継がれてきたものだ。
からだは一秒一秒途切れることなく60兆個の細胞が調和的に働いている。生きている以上、その力はずっと途切れることもなく、今もこうして連続的に働いている。60兆の多細胞である「からだ」は、地球や海という生命の培養装置を舞台として、遥かな長い歴史をかけてつくられた芸術作品なのだ。… ひとの人生(Life)を直線的な発展モデルで捉えていくと、死というのはそこで途切れたように感じてしまうものだが、円環的なモデルで捉えると、死は生とつながり存在の輪が完成する。人生を円環的に捉えていくことは、人生の長さではなく、質の問題であることを示唆しているともいえる。人生は瞬間瞬間で円環的に完結しているものだ。
(229,230頁)

60兆個もある細胞が調和して途切れることもなく働き続けているとは、奇跡といっても過言ではない素晴らしい「からだ」と知ると畏敬の念が生まれます。生まれ死んで行く私たちの身体が宇宙とつながるいのちの円環を形成していると見ることで、人生は長さではなく、質の問題であると人間の生き方を示唆しています。

法句経に見る人生の生き方

釈尊が説いた初期の経典である法句経(ダンマパダ)に次のような言葉があります。(中村元訳 ダンマパダ 第2章21)

つとめて励むのは、不死の境地である。

怠りなまけるのは、死の境涯である。

つとめて励む人々は、死ぬことがない。

怠りなまける人々は、死者のごとくである

私なりに解説すると、

つとめて励むのとは「不放逸」のこと。怠ることなく善き行いに励み精進努力することで不死の境地に至ると説いています。不死の境地とは、身体の死は自然の摂理であることを受け入れて、死の妄念を乗り越え、死に怯えない安寧の境地で、それは涅槃の境地なのです。

一方、僅かなことで怒りや憎しみを生み、勝手気ままな振る舞いや、今日やるべきことは先延ばしなど、なおざりな放逸な生活をしていると、心はすさみ苦しみが蓄積し、堕落した屍のごとき境涯となります。

自身の肉体が地上から永遠に失われることは耐え難い思いですが、ではどうして死ぬことがないと言うのか。私たちは今ここに生きているのです。この世に存在するあらゆる生命は、宇宙の中で生みだされた「いのち」の大きな流れの「今」にいるのです。このことに気づき、一瞬一瞬の今にやるべきことをしていく怠りなく励む人々は死ぬことがないと言うのです。

感情に支配されている私たちは怠りなまけてはいないでしょうか。放逸な生活は、老いたくない、病気になりたくない、死にたくないと常に身体を心配して、そこから解放されることもなく、生きていても死の影に怯えているのです。これは「死の境涯」です。心の安らぎが得られず、苦の輪廻から解放されず苦しみ続けます。

心の安らぎにおいてこそ、肉体的な死、老病の苦に打ち勝つことができるのです。生ある限り精進し、実践努力するところに生の意義があり、不死の境地が得られると釈尊は教説しています。

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