生きるとは何か - No.21-1

すべてに決められた時がある

2021年1月1日発行

寒さが厳しくなる12月になるとパンジーの小さな花で色とりどりに花壇を飾り、春の訪れを待ちわびます。朝晩の気温が下がり凍結しても、株、茎、葉、花は損傷せず、雪に埋もれても雪が解けると活き活きとした花や葉にもどる頼もしい草花です。寒い時期に、次々と花を咲かせ楽しませてくれます。同じ冬季、我家の庭にあるさざんかの花も目を楽しませてくれます。どの草木も輝く時は決められています。パンジーは11月から4月頃、さざんかは11月から1月頃が見頃の花です。

花の少ない厳冬期は温室栽培した草花が、花屋さんの店頭を飾り、生活に彩をもたらしてくれています。美しい切り花の盛りは短いですが、その短さゆえに美しさが際立つとも思えます。写真に撮るか、キャンパスに描き留めるかすれば、花の姿は長く留めることができますが、生花のみずみずしさには及びません。生きている花は、その一瞬に輝いています。

何を言いたいのかと読んでいる方は思うでしょう。花の盛りは短く、萎れるのは当たり前のこととして知っている事実の中に、自然現象の真理が含まれています。振り返って人間の成長過程を見ても、同じように若さの盛りはほんの一時です。私たちは常に若々しくいたいと、何歳になっても努力し続けますが、残念なことにこの流れは止めることはできません。自身が老齢になって終点が見えてくると、しみじみと気づくことはこの身体は、刻一刻と留まることなく変化しているという実感です。生きているものはこの現象から逃れることはできません。動物でも植物でもそれぞれ寿命は異なります。美しい花の寿命は短くて儚さを実感できますが人間のように平均寿命が80年以上と長くなると気づくことが難しくなります。

光陰矢の如し

どなたでも知っている諺です。月日の経過はなんと速いことか、12月に入ると身に沁みて感じられることと思います。この一年、何をしたのか振り返って思いを辿っても心もとない限りです。まだまだと思っている間に時間は過ぎて行きます。特に、今年は新型コロナウイルスという感染症が世界中に猛威を振るい、12月になっても第三波の大波に見舞われています。4月からは外出自粛もあり、12月末でも自由な行動は規制されて、自宅で過ごすことが当たり前の生活スタイルになっています。

しかし、この時を良い機会と捉え、じっくりと自分の軌跡を振り返り、今後どのような人生の時を過ごすか、人生とは何だったのかを考えることも意義のあることと思います。社会の第一線を退き、老後をどのように生きるかは人それぞれ異なりますが、言えることは、残り少ない人生、今しかないこの貴重な時間に気づき、後悔することなく一日一日を過ごすことです。

無常の流れの中に

世の中は留まることのない無常の流れであると、古人も書き残しています。有名なのは学生時代に習ったことのある鴨長明の方丈記の一節です。

・行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

この始まりの文章はわかりやすいですが、私なりに読み替えてみますと。

流れている川の水は絶えず変化していて、絶え間なく流れ去り、もとの水はそこにはない。よどみの水面に浮かぶ泡も消えてはまた生じ、その姿は長くはとどまることもない。この世に生きている人々も住かも水の流れやそこに生ずる泡と同じで絶え間なく移り変わっている、と人間の生きざまを川の流れに例えて語っています。

迅速な無常の流れが身体を貫いています。身体を構成している60兆個ともいわれる細胞は死滅と生成を繰り返して命を保っているのです。地球上に40億年前に誕生したと言われる生命が、脈々と進化を続けて現在の人間が存在していることを思うと、今この時は、悠久の「いのち」の流れの先頭にいるのです。

戦乱の続く時代

方丈記の書かれた時代は、朝廷の権威が失われ、武家が統治する時代の幕開けでした。京の都は相次ぐ戦乱と頻繁に発生した大火災で人々は住む家も失われ、飢えと疫病の流行で苦しみのどん底にいたのです。

手元にある標準日本史年表(吉川弘文館、2001年44版)で当時をふり返ってみます。

鴨長明が生まれたのは1153年です。数年後の1156年には保元の乱(天皇方と院方との政権争い)、1159年には平治の乱(平氏と源氏の戦で平氏が勝利)と戦乱続き、1167年平清盛が太政大臣となり平氏が政権をにぎり、平家全盛の時代でした。
しかし、当時の庶民は苦しみの連続、1175年に京都大火、疱瘡が流行、1177年にまたも京都大火、180町と大極殿焼亡(第四度)、大地震、1182年京都中に飢え疫病流行、死者巷に満つとの記載があります。平清盛は1181年の64歳で没しています。1192年には源頼朝が征夷大将軍になり、鎌倉に幕府が開らかれました。
長明は下鴨神社の正禰宜の次男として生まれ、恵まれた環境に育っていたようです。しかし、成人した後には、相続争いで不遇が続き、結果として出家し、無常の世相を小さな方丈庵から眺めて、晩年の1212年に方丈記を書き、1216年に64歳で亡くなっています。

民衆を救済する鎌倉仏教

鴨長明の時代、伝統ある旧仏教の大寺院である延暦寺や興福寺の僧徒は、社会不安のなかで、仏教の教えからは著しく乖離し、朝廷に対し自集団の権利を主張して暴徒化してしばしば朝廷に強訴に及んでいます。

その様子を、日本史年表から出来事を拾ってみると、1092年興福寺僧徒、山城加茂荘乱入、1095年延暦寺僧徒、日吉神輿を奉じて入京、美濃守源義綱を訴えるなど、毎年のように入京し強訴に及んでいます。長明の生まれた1153年にも延暦寺僧徒が入京し強訴しています。また、大寺院同士の争いにも発展し、1163年には延暦寺僧徒、円城寺を攻め堂塔を焼く(第四度)、1177年に延暦寺僧徒、日吉。白山の神輿を奉じ京都に乱入などと記録されています。1177年は京都で大火災があり、そのうえに大地震が発生し、大きな被害がでています。仏教で言われている末法の時代そのものの世相であったようです。

伝統ある大寺院の僧徒は自分らの主張を通すために、社会に被害を及ぼし、苦しむ人たちに救済の手を差し伸べることもしていません。当時、学びの中心であった天台宗延暦寺で仏教を学んでいた優秀な若い僧侶たちは、失望して比叡山を下りています。

今ある日本仏教の開祖たちの多くが、このような社会の大きな転換期に登場しています。当時の政治・社会情勢を思うと、伝統仏教の中には仏教の真の教えはなく、巷に下った僧侶の中では法然が最初に経典から求めていた教えを探りだしています。鎌倉仏教の開祖たちの活動年代を次表に示します。

「史料による日本史」(笠原・野呂著、山川出版社、1988年)より記載

丁度、長明が生きて方丈記を書いた時代に、大乗仏教の新たな担い手である法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍とそうそうたる祖師が登場しています。これらの新仏教が旗揚げしたのは、時代背景を考えると、偶然でなく、必然のように思えます。民衆に対して仏教の教えが届けられたまさにその時であったのです。

「史料による日本史」の中に簡潔に解説された文章がありました。概念の整理の参考になると思いますので引用します。(  )内は筆者が追記しました。

古代から中世への政治・社会の転換期に、いわゆる鎌倉仏教の
開祖たちが登場した。分か
るように、彼らは同時期に現れたので
なく、それぞれの時代の要請にこたえ、末法から脱却をめざす独自
の価値観を説いたのである。
新仏教は下表のように、浄土系、禅系、法華系の
三つにわかれ
るが、それぞれどのようなことを説いたのであろうか。
親鸞は師の法然専修念仏の教えをさらに一歩進め、弥陀を信じる
気持をおこせば、その
瞬間に往生が約束されると説いた。また、
史料が語るように、『悪人こそが弥陀の救いの対象だ』とする悪人
正機説を唱え、農民層に救いの手をのばした。これが、つづく
一遍になると、信心の有無を問うことなく、念仏を唱えるだけで、
すべての人が救われるとの悟りに達し、全国遊行の旅にのぼった。
道元は栄西の門に入って禅に打ち込んだが(満足せず中国に渡り
正師を求めた。)その特
色は厳しい出家主義になり、何よりもまず、
ひたすら坐禅をせよ(只管打座)と説いたので
ある。
元寇前後に活動した日蓮は、法華経至上主義に立つ。そして他宗は
亡国の教えであり、
法華経を中心とした正法の世をつくらねば、
国は乱れ、外敵の侵入まで招くだろうと北条
時頼に警告する。
だが、その烈しさがかえって幕府の弾圧を招き、二度も流罪される
ことに
なったのである。
 このように新仏教六派の説くところは、かなりのちがいを見せ
ている。しかし、いずれに
も共通しているのは、末法からの救済
をめざし、救われるためには、困難な修行の必要はな
く(易行)、
多くの経典からただ一つの教えを選び(選拓)、それだけにすが
りきる(専修)
立場をとったことであり、民衆に近づいたのであった。
しかし、そうはいっても鎌倉時代に
は旧仏教の勢力はいぜん強く、
高弁・貞慶 … 忍性らの旧仏教革新運動もあったことを
忘れてはなるまい。(43頁)
      鎌倉新仏教の分類

現代においても日本人の宗教感覚に鎌倉期に登場した新仏教は大きな影響を与え
ています。初めて民衆のこころに、仏教が届いた時であったと思います。初期仏教
から見ると開祖が前面にでてきて、釈迦はその陰に隠れた状態で、初期仏教の面影
は薄らいでいます。しかし、釈迦の教えの真髄である「慈悲のこころ」は底に
流れています。

 当たり前が素晴らしい

10年前の2011年に東日本大震災が起こり、甚大な被害が発生しました。その時、
誰しもが当たり前の普通の生活がどんなに素晴らしいことかと気づきました。
その後、年月を経るとすっかりと忘れて、刺激を求めた競走社会になっていました。
その反省を求めるように新型コロナウイルスに襲われ、もう一度、普段の生活の
素晴らしさを見直す機会が訪れたと思います。

「菜根譚×呻吟後」(湯浅邦弘、別冊NHK100分de名著2017)のなかの菜根譚の
ところに、次のような言葉がありました。国語訳を引用します。

・家庭の中にこそ一個の真の仏あり、日々の生活の中にこそ一種
の真の道がある。人の心が
誠で気が和らぎ、穏やかな顔つきで
優しい
言葉を使い、そして父母兄弟の間がまるで体がとけあう
ように気持ちがお互いに通じ合えば、正座をして息を整え、
坐禅して念を凝らす
ことよりも数万倍の効果があろう。(69頁)

なにげない日常の家族との交わりのなかにこそ、平穏な幸せがあると湯浅氏も
書いていますが、そのとおりだと思います。

家庭が社会の最小単位で、ここに平和がなくて国や国際社会が平和になることは
できません。歳をとると意固地になり、家庭や社会の平穏を乱す人もいます。
しかし、深く長い人生を経験したのですから、率先して平和な家庭や地域社会
の交流に役立つことで、生きがいにつながると思います。最も身近に出来る幸せ
作りの人生なのではないでしょうか。

今が実践する時です。

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