先の読めない世界
新型コロナウイルスのパンデミックで人の移動が制限され経済が停滞し、日本でも感染拡大の第4波が起こり、東京オリンピック・パラリンピックを目の前にして如何にして終息させられるかが急務となっています。今の状態は、ある程度は予想されていたとはいえ先のことを正確に知ることは誰も出来ません。後から見ればそうしておけばよかった、こうしておけばよかったと言えますが、後悔先に立たずとはこのことです。
感染が長引き拡大すると、ウイルスの変異型が増えて終息は益々難しくなると言われています。特に、高齢者は感染すると重症化して、死亡する危険が増えるようです。お互いに感染しないように注意をしていくしかありません。望みのワクチンの接種も日本は先進国では最下位です。
生きていく過程では予測できない多くの出来事に遭遇します。ある意味で人生は儚い夢のように思えます。その時、どのような心構えができていたら苦しみの泥沼に沈まないで済むのかを考えてみたいと思います。
旧約聖書に言葉があった
意外なところに良い教材がありました。それはNHKこころの時代で放映された『それでも生きる、旧約聖書「コへレトの言葉」』で、解説者は小友聡氏(東京神学大学教授)です。この講座は、本来は2020年4月から9月の予定が、コロナ拡大で一時中断を余儀なくされ、2020年11月から6回シリーズで放送されていました。11月14日の第一回を見たときに、そこにはつぎの言葉があり、驚きを覚えました。「コへレトの言葉」は説教者であるコへレトがエルサレムの王であったソロモン王の名を借りて智慧を語っています。
空(くう)の空
空の空、一切は空である。
これは仏教では見慣れた般若心経の「色即是空」「空即是色」の空なのか? あの分厚い旧約聖書の中に、このような言葉があるとはまったく知りませんでした。1987年版の「新共同訳聖書」では「なんという空(むな)しさ、すべては空しい」と訳されていたようですが、2018年に出版された「聖書協会共同訳」で上記のように改訂されたとのことです。
NHKテキスト
この「空」は原語のヘブライ語では「へベル」で、へベルには、「空しい」のほかに、「無益」「無意味」という否定的な意味もあるとのこと。小友氏は本文中にこの「空」という言葉が38回も繰り返し出てくるのは意図的であり、単に「空しい」とだけ受け取るのではなく「束(つか)の間」と時間的に短いことと、とらえるべきとしています。
この「束の間」と訳すと「空の空、一切は空である」は「すべては、ほんの束の間である」との意味となり、空しさという否定的で厭世的な感じが一変してきます。「人生は、ほんの束の間である」から時間を無駄にするな、今を大切に生きていきなさいと背中を押されているような思いが自然にでてきます。
この冒頭の言葉に続きに、次のような文章があります。
太陽の下(もと)、なされるあらゆる労苦は、
人に何の益をもたらすのか。
一代が過ぎ、また一代が興る。
地はとこしえに変わらない。
(中略)
すべてのことが人を疲れさせ
語り尽くすことはできず
目は見ても飽き足らず
耳は聞いても満たされない。
すべてあったことはこれからもあり
すでに行われたことはこれからも行われる。
大自然の中でなされる人の労苦を伴うあらゆる営みは、人生に何の益をもたらすのかと投げかけて、過ぎ行く人生の姿を淡々と語っています。
小友氏は、コへレトの言葉は新約聖書のイエスの言葉にも影響していると、「マタイによる福音書」の有名な「山上の説教」でイエスが弟子たちに教えを説く場面を例に説明をしています。
「あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。… 野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。… 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。」
小友氏はこの文章には、もう一つの真理があると注目しています。それは、イエスが野の花を指さして、明日をもわからない束の間の命であるが、美しく咲き誇っているのです。あなたがたも神の恵みを受けた存在なのですから、思い煩うことはやめようと説いていると解釈しています。先の文章の「寿命を僅かにでも延ばすことができようか」の「寿命」を「へベル」に置き換えてみると、意味がよくわかるでしょうと述べています。
異端の書とすら言われる旧約聖書の「コへレトの言葉」が、新約聖書のイエスの教えと深いところで繋がっていることは、普通は誰も考えもしないでしょう。けれども、紀元前後に誕生したナザレのイエスが、すでに成立していた聖書で「コへレトの言葉」をよんでいてもおかしくありません。いや、きっと読んでいたはずです。(テキスト44頁)
と述べて、新約聖書のイエスの言葉にも影響を与えていると記しています。
コへレトの言葉は、短く、限りある「束の間」の人生であるからこそ意味があるのだと教えてくれています。著者の小友氏は自身が脳梗塞を発症し救急搬送され、死を覚悟した時の経験を語っています。
何日も点滴だけで命を繋ぎ、ようやく起き上がることができ、初めてお粥を食べさせてもらったときに、ひと匙の粥で、喜びに打ち震えたこと。そして、体の中に命が通っていく、その感覚に「ああ、生かされているんだ!!」と強く思ったことを体験して、人生は限られているということを、いやおうなく実感させられたと回顧しています。
人生は「ほんの束の間」であると心底から思えたからこそ、食事ができる日常の生活に幸せを見出したのでしょう。関連する次のような言葉もあります。
私は知った。
一生の間、喜び、幸せを作り出す以外に、人の子らに幸せはない。
また、すべての人は食べ、飲みあらゆる労苦の内に幸せを見いだす。
これこそが神の賜物である。 (3章12節) (テキスト46頁)
生きていることに気づく
人は、何時いかなる時に、不慮の事故に遭遇するかはまったくわかりません。平和に見える日本でも、東日本大震災や熊本地震、集中豪雨での堤防決壊、新型コロナウイルスの蔓延など絶え間なく、生命の危機に瀕しています。また、世界に目を向けると、戦乱のなかで厳しい生活を強いられている避難民や、独裁的指導者によって政治的圧政に苦しんでいる国民も多数います。彼らにとって生きていることは、苦しみばかりで夢も希望もありませんが、僅かな食料を家族で分け合い、平穏な食事の時間が流れたときに、そこに生きる喜びを感じていることでしょう。
人生は束の間なのです。いのちは自然から与えられたものです。生きている今を、どのように生き抜いていくかは、各自に問いかけられている宿題のようなものです。生きていれば、先のことはわかりませんが、あたらたな変化にも巡り合うこともあります。世の中は、不条理なことが多くありますが、向き合い続け、思考停止しないで、前に向かって進むことで宿題を済ませることができるのではないでしょうか。
生きることは死の裏打ちがあるから、意味を見いだせるのです。テキストにも、「もし人が2千年の寿命を約束されたら、今を生きる人生の意味は消失します。人生は死という終わりがあるからこそ、意味があるのです」と。例えば、癌で余命が宣言されたとき、私たちは慌てふためきます。死が迫ると、この世から去らねばならない心細さと、無念さが襲ってきます。なぜでしょうか。生きることへの強い執着があり、今までの個人的蓄積が一切失われる空しさや寂しさからでしょうか。
注意深く見つめると、余命が宣告されても、されなくても生きているのは、今のこの瞬間だけなのです。普段は、漠然と明日や明後日が約束されているように妄想しているのです。まだまだ5年や10年はあると、淡い期待の中で生きているのが現実です。今を生きていることが、いかに貴重なことか心から頷けたときに、苦しみの泥沼に沈まない準備が整いつつあるのかと思います。日常では、生きている「今」に気づいていないのです。死が目の前に迫ると、はっとして、生きていると気づかされるのです。その時、心は準備不足で苦しみの泥沼に足を捕られた瞬間です。
小友氏は講座の最後を次のように結んでいます。
・明日が見えなくても、今日を生きよ。今、この時を生きよ。涙を拭って前に進め。明日に向かって種を蒔け。コへレトは、そう呼びかけています。
「コへレトの言葉」には多くの有意な教えが多くあります。ここでは到底語り尽くせませんので興味のある方はテキストを購入するか、NHKこころの時代のTV放映を見ることをお勧めします。
仏教とキリスト教では、存在の捉え方が異なる
仏教の「空」はコへレトの言葉と異なる意味で使用しています。仏教には、代表的な言葉で「諸行無常」「諸法無我」があります。諸行無常とは、この世のあらゆることは、絶え間なく変化をしている無常の姿をしており、固定した実体はないと教えています。私たちは感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身、意)から入る情報を、色や形、音、匂い、味覚、触覚として脳で認識して、好き勝手な概念や妄想を作り出しているのです。これらは瞬間瞬間に変化してるから、固定的な実体はないと説いています。さらに、あらゆるものは相互に依存し合って成り立っていて、独立して存在するものはないのです。そのことを諸法無我と言っています。このように、すべてのものが固定的な実体がない状態を「空」と表現しています。
実体がないとわかれば、私という「自我」がないことに気づけるのです。私のもの、あなたのものと主張する必要がないのです。それ故、ものごとに執着することがなくなり、自然と手放すことになり、苦しみからの解放がもたらされるのです。
コへレトの言葉は、この世にある草花も私も、束の間の実体として認めています。死によって終わる儚い存在であるあるから、精一杯生きよと私たちに呼びかけているのです。普通に生活している我々の目線で、生きることの意味を教え、背中を押してくれる言葉です。
一方、仏教では生命の本質に迫っています。あらゆるものは無常であり、絶え間なく変化し、多くの要因が相互に依存しあって存在していると説いているのです。そこには、私という実体はなく「無我」であると。言葉で言うのは簡単ですが、実感として体得するのが大切で、そのために瞑想実践や坐禅などの修行が求められています。
キリスト教は、神がすべてを決めたとこから始まるので、人間の本質(生命の在り方)を見極めることをしていません。しかし、日本の大乗仏教も阿弥陀仏や大日如来、観音菩薩など信仰の対象を沢山出現させています。苦しみや死期が迫ると、阿弥陀様や観音様に心の救済を求めているのが現状です。
信仰は個人の主観的な問題です。心の安らぎが得られるなら、何を選択するかは自由ですが、基本的な知識は習得しておくことが必要であると考えます。