生きるとは何か - No.21-10

人生に長短はあるのか

2021年10月1日発行

新型コロナウイルスによるパンデミックで、世界中の経済活動が停止状態になり、人々に恐怖と混乱を引き起こしているこのような大災害が起こることを誰が予測できたでしょうか。将来、何が起こるか確信を持って言えることは、生きている限り、「老・病・死」が避けられないことです。不安と希望に満ちた若さは、瞬く間に過ぎて、家族のため、社会のためと働き詰めの中年期を過ごし、たどり着いた老年期に、コロナ禍のようなパンデミックにのみこまれ命を亡くした多くの方がいました。その間に、突然に襲う脳梗塞、心筋梗塞などの病気や不慮の事故で命を落とすこともあります。

若い時には、人生における時間の観念はなく、今の状態が当然続くものとして将来に思いを馳せています。しかし、高齢になると、残された時間は限られていることを身に沁みて感じ、身体も弱ってくるので、何か新たなことをなす熱意も少なくなってきます。

突き詰めて見ると、私たちの身体を構成している細胞も日々に消滅と生成を繰り返し、絶え間なく変化している無常の姿であることが分かります。今日ここに生きていることが、非常に貴重な時間であることに、普段は気づいていないのです。毎日の仕事に追われ、あれもしなければ、これもしなければと忙殺されていると、ただただ時間は過ぎ去って、気がつくと老齢になっていた自分を見ることになります。自分のための時間は、残り僅かしかないと気づかされるのです。その時、人生の短さを思うのでしょう。

人生の短さについて

人生100年時代になったといわれる最近ですが、2000年前の古代ローマの哲学者のセネカは現代にも通じる言葉を残しています。セネカ「生の短さについて」(大西英文訳、岩波文庫、電子書籍版2020年)から少しですが引用してみます。

「誰かが白髪であるからといって、 あるいは顔に皺があるからといって、その人が長生きしたと考える理由はない。 彼は長く生きたのではなく、長くいただけのことなのだ。」

老齢の私にとってはかなり厳しい言葉です。長く生きたのでなく、長くいただけと言いきられると返す言葉もありません。長くいた人生の中で、生活のために時間を消費して、仕事を通して間接的に社会に僅かばかりの貢献をしたと思っています。60歳を過ぎて、両親の世話をする中で、「生きるとは何か」とやっと考え始めました。しかし、短い時間でも一日一日の使い方で人間の成長はありうると思いたいです。

「今ある現在は 一日 一日を言い、その一日も刹那の一瞬から成る。」

生きている限り存在している時間は、「現在の一日一日を言い、その一日も刹那の一瞬から成る」とはまさにその通りです。若い時には、その自覚はなく、持ち時間は永続的にあると思って過ごしていました。しかし、瞬間、瞬間の人生であるとの自覚を得れば、老齢でも意義ある人生に変わると思います。

「何かに忙殺されている人間のいまだ 稚拙な精神は、 不意に老年に襲われる。 何の準備もなく、 何の装備もないまま、 老年に至るのである。」

 コロナ禍の現代においては、忙殺される何かがなく、悶々と時間を持て余しています。ただ時間を浪費している愚行を重ねているうちに、残された時間は刻一刻となくなっています。この過ごし方は、死を迎えたときに、儚く短い人生であったと思うのでしょう。

「われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。 人間の生は、 全体を立派に活用すれば、 十分に長く、 偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。」

2000年前の古代ローマでは「50歳から60歳は僅かな人間しか達しない」という記述がありました。すると多く人の寿命は40歳代くらいと思います。その中でも時間を浪費しなければ偉大なことを完遂できる十分な時間が与えられると言っています。

長く人生を生きた人

NHK福祉情報サイト(ハートネット)に、両目と両手を失った盲学校の元教師の言葉がありました。藤野高明さん(82歳)は不発爆弾で小学2年生のとき両眼の視力を失くしただけでなく、両手もなくしてしまい、学校にも行けず悶々とする日々を過ごしています。
その上、15歳で父を亡くし、母子家庭となり、母親は5人兄弟を一生懸命に育てるのを見ていたそうです。あるときハンセン病の人が舌とか唇で点字を読むのを聞いて、唇で読む練習をし、読めるようになったときに、本当に真っ暗闇の世界に光が差し込んでくるような気持ちがしたそうです。

 転機は一人の看護師と一冊の本との出会い

彼は目の手術のため15歳から20歳まで入院し、18歳のとき、医師から治る見込みがないと告げられて自暴自棄になる。その当時、病室に来た3歳年上の看護学生が読んでくれたハンセン病患者の北條民雄の『いのちの初夜』に引き込まれ感銘を受けたそうです。ハンセン病の人たちは、舌先でなめるようにして本を読んでいる、なりふり構わない生き方からエネルギーを貰い「私もそうありたい、彼らのように生きたいなあ」と思うようになったと記しています。

教師になるまでの苦難の道

 20歳のときから大阪市立盲学校で5年間学び、学校と勉強の楽しさを知って、社会科の先生になりたいとの希望が湧き、大学に進学しようとしても、二重障害のある藤野さんは4つの大学に受験そのものを断られ、私立の通信制のある大学に障害を隠して入学を決めています。しかし、高校社会科の教員免許とるためには、大学での授業を受ける必要があったとき、大学職員からは学業を諦めるよう説得されたそうです。

1971年に大学を卒業したが、当時の公立学校の教員採用試験は全盲の人を受け入れることを全く想定されていなかった。1年かけて教育委員会と交渉し、点字受験ができるようになり、6倍の競争率を突破して合格しています。その後も多くの紆余曲折がありながら、1973年、34歳で正式に教諭として採用され、2002年まで、母校の大阪市立盲学校で教鞭をとっています。

厳しいハンデキャップをはねのけて、自分を信じて努力する姿に驚嘆します。五体満足な身体を持ち、わずかなことで不満をこぼし、苦しいなどと弱音を吐く自分が恥ずかしく思います。歩む道に向けて、時間を浪費することなく活用し、有意義な人生を生きている立派な人がいることに勇気づけられます。藤野さんは第37回NHK障害福祉賞を2002年に受賞しています。概略を紹介しましたが、藤野高明でGoogle検索すると一連の記事を読むことができます。

短い生涯でも偉大な人生

吉田松陰の処刑される前の逸話があり、時間を浪費しない姿に感心しましたので紹介します。致知出版社の人間力メルガマ(2021・9・22)に記載されていた渡部昇一著『人生を創る言葉』より一部抜粋された記事の紹介です。

安政元年3月28日、吉田松陰が牢番に呼びかけた。
その前夜、松陰は金子重輔と共に伊豆下田に停泊していたアメリカの軍艦に乗り付け、海外密航を企てた。しかし、よく知られるように失敗して、牢に入れられたのである。
「一つお願いがある。それは他でもないが、実は昨日、行李(こうり)が流されてしまった。それで手元に読み物がない。恐れ入るが、何かお手元の書物を貸してもらえないだろうか」
牢番はびっくりした。

「あなた方は大それた密航を企み、こうして捕まっているのだ。何も檻の中で勉強しなくてもいいではないか。どっちみち重いおしおきになるのだから」
すると松陰は、
「ごもっともです。それは覚悟しているけれども、自分がおしおきになるまではまだ時間が多少あるであろう。それまではやはり一日の仕事をしなければならない。
人間というものは、

一日この世に生きておれば、
一日の食物を食らい、
一日の衣を着、
一日の家に住む。
それであるから、
一日の学問、
一日の事業を励んで、
天地万物への御恩を報じなければならない。この儀が納得できたら、是非本を貸してもらいたい」この言葉に感心して牢番は松陰に本を貸した。
すると松蔭は金子重輔と一緒にこれを読んでいたけれど、そのゆったりとした様子は、やがて処刑に赴くようには全然見えなかった。
松蔭は牢の中で重輔に向かってこういった。
「金子君、今日このときの読書こそ、本当の学問であるぞ」
牢に入って刑に処せられる前になっても、松蔭は自己修養、勉強を止めなかった。

人生は一日一日の積み重ねです。生きている現在はこの一日で、将来のことはどうなるかはわからない。私たちは、仕事にしても、趣味にしても、この先が続いてあることを想定しているから、安心して今のことに注力出来ているのです。

松陰は処刑される前になっても、時間を浪費することなく、「今日一日の読書」ができる胆力を持っていたのは「生きることの本質」を悟っていたのでしょう。
禅の語録にも「一日不作 一日不食」という言葉があります。一日働いて一日分食べる。次の日も一日働いて一日分食べる。毎日を勤勉に暮すことが、精神的にも肉体的にも健康でいられるとの解説がありました。

スマナサーラ長老の解説には、ブッダの言葉でいえば、「明日、死なないという保証はないんだよ。だから今日、不放逸で頑張りなさい」と述べています。不放逸とは、努めて怠ることなく励むことで、毎日を勤勉に暮すことです。

誰でも、このくらいのことは知っていると言うかもしれませんが、腹の底から得心していないと空念仏になってしまいます。知識で理解しただけではほとんど役に立ちません。ただ知っているだけで、心を動かすエネルギーにはなりません。

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