生きるとは何か - No.22-2

誰にも先祖はいる(4)古墳から蘇る渡来人

2022年2月1日発行

自分の先祖について考え始めた時、古墳時代の埴輪について書かれた田中英道氏の本「発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く」を読んで非常に興味をそそられました。古墳時代といえば遠い昔の話として全く関心がなかった私ですが、磁石に引き寄せられるように、千葉県芝山古墳を訪れ、そこで紛れもないユダヤ人埴輪を目にしました。この人物埴輪との出会いにより日本の古代史について強い関心を持つことができました。芝山古墳の現地報告は前の「誰にも先祖はいる」の(1)、(2)で致しました。

古墳時代に栄えた群馬

今回は群馬県高崎市にある2基の古墳群を紹介します。

高崎市内には5世紀後半には八基の古墳があり、その中の保渡田八幡塚古墳と六世紀後半の綿貫観音山古墳を見学してきました。古墳を愛する友人の案内で二カ所の古墳と彼が加わっている埴輪の修復作業所の訪問と、これら貴重な出土品が陳列されている群馬県立歴史博物館では閉館ぎりぎりまで鑑賞しました。

榛名山が2度にわたり大噴火

この地域は榛名山の東南に広がる大地ですが、六世紀にはいると、榛名山が2度の大噴火(最初が5世紀末から6世紀初頭ごろで、次が6世紀中ごろ)を起こして、発生した火砕流は山麓を焼け野原とし、土石流が農地を埋め尽くしたと言われています。私の生まれた渋川市も最初の大噴火に伴う火砕流で被災し、火山灰が約30センチ積もり、2度目の大噴火で軽石などが約1.8メートルにわたってその上に堆積したとのこと。厚い噴石に埋もれ、二度目の噴火で埋没した渋川市の黒井峰遺跡は日本のポンペイと呼ばれることがあるようです。

土石流に埋もれた八幡塚古墳

八幡塚古墳の築造されたころは地域社会も繁栄していたが、突然、榛名山が大噴火を起こし噴出物で覆われ、古墳発掘される現在まで原型が保たれていたことが幸いして多くの発見があつたようです。八幡塚古墳が造られた5世紀後半は大和朝廷から信任を受けた有力な豪族(王)によって治められた社会が広がっていたのです。

写真1は2021年に「王の儀式」の再現劇(かみつけの里博物館資料より)をしたときの古代衣裳を着た人物が八幡塚古墳の上に整列した写真です。古墳の全景と大きさがよく分かりますので転載します。

写真1 八幡塚古墳の全景と再現劇の一コマ(かみつけの里博物館パンフレット)

写真2は八幡塚古墳の発掘調査で復元した埴輪や石棺などを示すデータファイルです。古墳は土石流に埋もれていたために、埴輪の設置位置が良く保たれて復元できています。

    写真2 八幡塚古墳のデータファイル(かみつけの里博物館資料)

写真2の左下に人物・動物埴輪を並べた区画があり、先頭には剣を持ったユダヤ人埴輪があります。博物館資料では武人埴輪とだけ記されています。周囲に掘りを巡らし、整然とした造りの巨大古墳(墓域の全長約190m)と埴輪群と埋葬品から大きな権力を持ち人望の厚かったと思われる豪族であったことが伺えます。

未盗掘の綿貫観音山古墳

六世紀後半になって榛名山の大噴火からの復興が始まり、井野川下流域に綿貫観音山古墳が造られ、次の隆盛期を迎えたと高崎市の資料に記されています。

かつて13、000基を超える古墳があったとされる群馬県地域に、半径400m圏内に墳丘長100m近くの前方後円墳が4基もあり、その最後の古墳が綿貫観音山古墳とのことです。この時期は、東アジアは激動の社会でした。中国は南北朝時代であり、朝鮮半島は高句麗・百濟・新羅が覇権を争い、半島南部に小国ながら加耶があったが562年新羅に併合されています。ヤマト王権がこれら諸国に対し、積極的な外交を推し進めていた時期に築かれたのが観音山古墳です。横穴式石室内から発見された副葬品(写真3)には東アジア諸国に縁のあるものが多く含まれていて、豪華で極めて充実したものですべてが国宝に指定されています。

   写真3 綿貫観音山古墳に埋蔵されていた副葬品(パンフレットより)

埴輪も種類・量ともに極めて豊富で、円筒埴輪と形象埴輪(家・器材・人物・動物)があり、樹立場所は、後円部から前方部にかけての墳頂部と墳丘第一段上面(基壇面)とのこと。写真4に示す埴輪群は埋葬された被葬者である地域の首長(椅子に座る男子像)を中心とした王の世界を様々な形で表現したものであったろうと推測されています。

武人埴輪は以前見学した芝山古墳のユダヤ人埴輪と見間違うほどに似ています。左下の椅子に座っている人物が王で顎髭はないが、鍔付き帽と髪を左右に分け両耳辺りで束ねて輪状に結んだ美豆良(みずら)と高い鼻の人物はユダヤ人埴輪と言えるのではないでしょうか。右上の武人埴輪も帽子の形は異なるが風貌は同様です。

写真4 観音山古墳の埴輪群(パンフレットより)

友人からのメールで確信

後藤様 資料送って頂き有難うございます。

武人埴輪のユダヤ人説 興味深く読ませてもらっているのですが・・・

面白くなってきましたよ! 高崎の渡来人もユダヤ人かも知れないのです!!

高崎には5年前世界記憶遺産に登録された上野三碑(こうずけさんぴ)が有りその中の一つが多胡碑です。

奈良時代に多胡郡が新設され「羊」という人物に郡司を命ずるという詔を伝えたものです。(資料添付)

日本には居なかったはずの「羊」という名称に前から違和感が有ったので もしや?と調べてみました。

出てきましたよ! 「馬と羊を引き連れた渡来人の古代イスラエル人が当地(高崎)に来た」と篠原央憲著「天皇家とユダヤ人」にあり松浦静山著「甲子夜話」には羊太夫の墓から十字架が出たと書いてあるらしいのです。

若狭先生の著書には「多胡は胡人(渡来人)が多いから」とだけあって朝鮮半島や中国大陸の人達かと思っていたのですが胡人とは中国から見て西域の人・・・となれば多胡の人達は中国の西からやってきたことになります。

キリストと羊は関係あるわけだし・・・羊神社の縁起には羊年、羊の日、羊の時刻に生まれたとありました。多胡碑に刻まれた片岡郡は今の片岡町に地名を残しています。小生の居る石原町は隣町で片岡郡のエリアだったようです。この辺り多胡の人達が住んでいたかもしれないと思うと羊太夫が急に身近になってきました。

地元では多胡碑は「おひつじさま」と崇められていて羊神社もあり「上毛かるた」にも歌われています。羊太夫は2m余の大男で空を飛び奈良の都に通ったとか 居城と伝わる八束山には大きな窪みのある岩が有り飛び立った時の”羊の足跡”・・・ 大きな舟形の石は天から降りてきた時乗ってきた・・・等々伝説があり、秩父にも羊太夫伝説が有るようで当時としては大変な有名人・・・古代スーパーマンだったのかもしれません。

容姿は帽子にあごひげ羊皮のマントをなびかせ都へ一直線・・・などと想像したくなります。

そんなわけで来年はこの羊太夫伝説にまつわる辺りを巡ってみようかなと思っている次第です。蛇足ですが 厩戸皇子つながりで・・・前橋の旧地名(江戸時代以前)が厩橋というのも面白いですね。

オミクロンの動向が気になる年の瀬ですが来年こそ平穏な年になってほしいものです。

皆様におかれましては健やかな新年を迎えますよう祈念申し上げます。                                                                               山梨豪之

次に添付資料を開示します。

添付された多胡碑を見る

当時の中央政府が日本に定着した「羊」という人物を郡司に起用した公文書であり、まさに帰化した渡来人であるユダヤ人が正式に日本人として政治に参加している証拠です。このような歴史的な証拠が出ると益々興味が湧き、古代史は面白くなってきました。

日本書紀に渡来人の記述が!

日本書紀(宇治谷 孟、全現代語訳、講談社学術文庫)の巻第十の応神天皇(即位399年)の項に次のような記載があります。

・14年、この年、弓月君(ゆつきのきみ)が百済からやってきた。奏上して、「私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし、新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています」といった。そこで葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)を遣わして、弓月の民を加羅国によばれた。しかし三年たっても襲津彦は帰ってこなかった。

・八月、平群木菟宿禰(へぐりのくめすくね)・的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。精兵を授けて詔して、「襲津彦が長らく還ってこない。きっと新羅が邪魔をしているので滞っているのだろう。お前たちは速やかに行って新羅を討ち、その道を開け」といわれた。木菟宿禰ら兵を進めて、新羅の国境に臨んだ。新羅の王は恐れてその罪に服した。そこで弓月の民を率いて、襲津彦と共に還ってきた。

直接、弓月君が日本に助けを求めに来るほど、当時の日本は強国として知られていたことになります。2度目の精鋭兵が国境に到着しただけで、新羅の王は恐れて服従したことを見ると、ヤマト王権は基盤が確立していたと思われます。

田中英道氏の本(新日本古代史、育鵬社)によると、先代の神功皇后の時代に三韓征伐が行われていて、高句麗、百濟、新羅は日本に服従していたとのことです。神功皇后の子が第十五代の応神天皇なので、新羅が素直に服従したのは頷けます。

応神天皇が多数のユダヤ系渡来人(秦氏)を受け入れ、その武力や経済力を評価し、大和国の繁栄に用い、彼らに土地を与え、日本に定着させたことで、その後の日本の政治・経済や精神文化にまで大きな影響を与えています。

この時のユダヤ系渡来人の子孫が、30年から50年後に関東地区全域に進出して、そのなかのある集団は高崎を中心とした地域の豪族となり、今回見学した古墳を残していたと考えると古代への思いも膨らみます。

従来は、単に武人埴輪として異形の埴輪と観ていたのが、ユダヤ人埴輪であつたと分かると一挙に歴史が動き出したと感じました。これからも現地調査や見学を継続して、私の先祖にもつながる日本の古代史を楽しみたいと思っています。

 

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