生きるとは何か - No.22-6

生きていることの不思議

2022年6月発行

私達は何処から来て何処に行くのでしょうか。知らぬまに、母親から生まれ成長して今ここにいて、当たり前のように日々の生活をしています。「私」や「あなた」という存在が、現在何事もなくこの場所で、活動していることを不思議に思うことはほとんどないと思います。広大な宇宙に漂う地球という環境の中で、命ある生物として動植物に囲まれて生活しているのです。

少しふり返って見でください。昨日、一週間前、一年前の自分はどうでしたか。昨日と今日では、いくつか働きはしましたが、身の周りに大きな変化は無く、同じような日常を過ごしましたが、ほとんど変わったと思いません。この一週間は何をしていたか覚えていますか、特別な出来事がないかぎりは漠然とした記憶しかありません。一年前は、10年前は、50年前はと辿って行ってもすっかり忘れていて、日記でも付けていないと思いだすことはできません。過去を振り返ってあの時にこうしておけば良かったとか、もっと親切にしていたらと悔やんでもやり直しはできません。しかし、過去に経験したことは、良いことも悪いことも、脳内には記憶として蓄積(どの程度かはわかりません)されていて、今の私の想いや考え方や行動に影響を与えているのです。過去の出来事や未来の予測することも、現在の時間の中に包含されています。

人生で長い日は今日の一日

今日の一日は、実感として時間の経過を感じることができます。当然のこと、今ここに生きているからです。長い時を過ごしてきた過去は、記憶の一瞬の出来事として過ぎ去ってしまいます。生きている今の状態をありのままに観察していると、一瞬一瞬に時が過ぎ去っていることに、気づけると思います。だが、漠然と目の前の出来ごとに心を奪われていると、すべてのことが後戻りすることのできない大切な今を見過ごしてしまいます。
この身体は、数分や数時間という短い時間では、その変化を感じ取ることができませんが、ある時にふと鏡の中の自分と対面して、白髪が増え、目じりにしわの多い、老いている自分の姿に気づき時間の流れを感じます。今日まで、多くの経験を積んできた身体は老いて、病気になり、死にゆく肉体です。この肉体は物質ですが、一体となって身体を動かしている心は眼に見えませんし、触ることもできません。しかし、確実に身体と一体となっていて、生活を取り仕切っています。

私たちは眼でものを見て、耳で音を聞き、鼻で匂いを嗅いで、舌で味を感じ、身体で外界と感触し、意で意味を判別して、外の世界と関係を持っています。それによって私という実体があると錯覚し、常に同じ私がいると思っています。しかし、身体や心は絶えず変化している無常の姿であり、取り巻く環境も同じように刻一刻と変わっていると知ることができます。

過ぎ去った過去も、まだ来ない未来も、生きているこの時に凝縮されて今があることを思うと、この一日は活動できる最も長い時間であると感じます。後にも先にも現実は今しかありません。個人にとって、生きてこの世に存在しているのは、今日の一日です。
諸行無常は生物も含めた宇宙の真理です。一方、「諸法無我」とは生命のある生物界に対する真理であり、我々を取り巻くあらゆるものごとは縁起によって起こっています。常に変化して固定した実体はありません。当然そこには「私」という自我はなく、無我なのです。突き詰めれば、この一瞬一瞬に生きています。

仏教では、あらゆるものは変化して止むことのない「諸行無常」であり、「諸法無我」と説いています。2600年前にブッダが6年間の苦行の末に、人間の身体と心の関係がどのような仕組みなのかを明確に見極めています。「こころ」に対して深く掘り下げた教えに唯識学があります。

あらゆるものは心を離れて存在しない

目の前にあるものを、客観的事実として見ていると思っていますが、それは過去に蓄積された経験や知識に基づき認識しているのです。私たちが接する外界のあらゆるものは、心を離れて存在しないと唯識では説きます。
唯識は人間の心を、表層の心(意識している心)と、深層の心(意識下の無意識の心)の重層構造として捉えています。表層の心は目で見て知る眼識(第一識)、耳で聞いて知る耳識(第二識)、鼻で臭を知る鼻識(第三識)、舌で味わって知る舌識(第四識)、身体の触覚で知る身識(第五識)があります。更に知識、感情、想像などの意識(第六識)で構成されています。第一識から六識までをまとめて前六識と呼んでいます。

それに対して深層の意識下には末那識(まなしき)(第七識)と阿頼耶識(あらやしき)(第八識)の二つの層があります。末那識は自分に執着した自己中心的な自我の心と定義しています。第八識の阿頼耶識は過去の出来事や経験を貯め込んでいる蓄える心です。
唯識は人の心を〈八識〉のものとして捉えた人間観です。内容が深いので簡単な説明が難しいので、詳細は解説書に譲ります。ここでは太田久紀氏の『「唯識」の読み方』(1)を推薦します。少し分厚いですが、分かり易くて詳細に解説されています。太田氏の本から、人間を知るための言葉として、阿頼耶識からの教えを幾つか記述します。

・ものを見る目を深めよ。深めるよりほかに、
 深い外界を見ることはできない。

漠然と見ていてはそのものの本質は見えない。例えば、書道を習い、書の墨線の鋭さ、リズム感、濃淡の変化、余白などの深みなどが見えるまでに、長い鍛錬が必要であることを知りました。見る目を深めるよりほかに、その書の良さは見えてこないことを身をもって体験しました。これは何事にも通じることと思います。当たり前に見える景色に中にも、詩人には詩情が感動を持って迫ってくるようです。

           青いお空の底ふかく、
           海の小石のそのように、
          夜がくるまで沈んでる、
          昼のお星は眼にみえぬ。
            見えぬけれどもあるんだよ、
           見えぬものでもあるんだよ。

この詩は金子みすゞの「星とたんぽぽ」の詩の一節です。26年のあまりにも恵まれない生涯でしたが、素晴らしい詩を多く残しています。「見えぬものでもあるんだよ」と豊かな詩情を持っています。このような詩が書けるのは高学歴の知識があても決して書けません。脳の深部の阿頼耶識に蓄えられた詩情の深さによるのでしょうか。

・過去の経験とは、一人ひとりが別々の経験を積み重ねているのだから、一人ひとりが別の阿頼耶識において生きていることだ。つまり、人は〈個〉として、かえがいのない独自の人生をいきていることである。過去の経験の集積としての統一性を持ち、連続した同一性を持って生きていることである。だが、〈個〉の同一性は紙一重の差で、自我の実体化と隣あっている。相似相続の自分がどんな〈個〉の形をとっていたとしても、それを固定化し実体化する錯誤を犯してはならぬのである。

人は皆それぞれ生まれた国や育った環境や親から受け継いだDNA(遺伝子)が異なり、違った生活環境の中で活動しています。個人としては、誰とも異なる経験を積み重ねて、その人の人格が形成することになります。その中で「私」という自我は常にある実体として固定化してはならないと教えています。

阿頼耶識は最も深いところで過去の経験を蓄えていますが、その上にあって働くのが末那識です。末那識は「思い量る」という意味なので、思い量るのは、自分の都合です。ただひたすら自分のことだけを思い量る我執の心です。何事も、自分を中心に考えているのです。
私はかって管理職をしていた時に、公正にものごとを判断しようと思っても、さっと自分の都合が割り込んでくることに、気づいた経験をしています。老境の今でも自分の都合が入り込んでいます。
仏教で利他心を持つことの大切さを説いていますが、実際は自分という意識を捨てきるのは難しいことです。個の自分を実体化し、固定化してしまいす。自分という実体はないと知ることが仏教の教えです。それにはあらゆることに無常の姿を認めて、実感することです。無常の流れの中で「私」という概念や意識が薄れて行くことを体感することです。

自然と一体である人間

日常生活する上では、自然から独立した存在であるかのように思っています。自分が好きなように思考し、活動できるので、特別のことがない限り、環境についての意識はしないと思います。しかし、よく見てください、あなたはどこにいますか。都会の高層マンション、田園の住宅街、山里の一軒家など、どこにいても、空気や水や太陽の光、田畑で採れる米や野菜、飼育されている牛や豚、鶏などの動植物からの恵みがなければ生きていられません。自然の中にどっぷりとつかり一体であると、意識することもなく生活しています。

人間は動物ですから生きるためにはエネルギーが必要で、そのために餌を求めて歩き回る。植物は自身で太陽光と二酸化炭素(CO2)と水で炭水化物というエネルギーを作り出しています。動く必要がないから田畑や森林が形成されていて、人間が排出する炭酸ガスは植物のエネルギー資源となり、循環が成り立っている。人間は植物から切り離すことができないパートナーなのです。更に、人間や動物の死骸や植物の落ち葉や倒木は腐食して地中にいるバクテリアが餌としてこれらの有機物を分解して、無機物として土に還している。自然界はこのように素晴らし循環が成り立っていて、バクテリア、植物、動物のどれか一つが欠けても地球は成り立たないとのことです。詳細は藤田絋一郎氏の本(2)を読んでみてください。学ぶことが沢山あります。

宇宙の中の人間

宇宙の中で奇跡的な星である地球の誕生をふり返って見ます。

地球は宇宙のなかの一つの星です。宇宙は、最新の宇宙科学の成果では138億年前に誕生したと言われています。その後、急速に膨張を続けながら温度を下げ、やがて原始銀河が生まれ、その中で星が誕生します。地球も多くの星々の一つです。高井氏の解説(3)によれば46億年の歴史を持つ地球に生命が誕生したのはおよそ38億年前の深海で生命活動は存在していたとのこと。太陽光のエネルギーを使って光合成生物が現れて、地球規模の生態系を支えるようになったのは30億年前くらいであると述べています。

この宇宙が創り出した元素で、地球上の人間や動植物や鉱物など森羅万象のすべてが構成されています。私たちは宇宙が用意した元素でできていますから、宇宙の構成要素と同じであり、生み出されたすべての生命は、生命進化の一本の系統樹から枝葉として分かれた仲間です。生命科学者中村桂子氏の「生命誌絵巻」に電磁気学の専門家である高田達雄氏が人類は光電磁波(光子)エネルギーで生かされ、進化してきたとの思いを込めて注釈を記入した図1(4)を作成しています。この図で見るように太陽からの光電磁波エナルギーによって、生命体の38億年の歴史を経て3000万種の生命体と人類も発生させています。しかし、近代化の歴史150年の間に人類は裕福になり急激な人口増加をし、そこ結果として地球環境を著しく破壊しています。図1は高田氏より提供を受けたものです。

図1. 中村桂子氏の「生命誌絵巻」に高田達雄氏が注釈
(元図はJT生命誌研究館提供)

この宇宙が創り出した元素で、地球上の人間や動植物や鉱物など森羅万象のすべてが構成されています。私たちは宇宙が用意した元素でできていますから、宇宙の構成要素と同じであり、生み出されたすべての生命は、生命進化の一本の系統樹から枝葉として分かれた仲間です。宇宙の中で、人間はどのような位置にあるか、概略のイメージを図2(4)に示します。図の中にある人間の大きさ10⁰(1メートル)を中心にすると、極大の世界と、極小の世界の中間位にあることが分かります。極小と極大を構成する素粒子は同じものなのです。人と地球の大きさの比は、人の体内にいるウイルスの大きさの比とほぼ同じなのです。素粒子が結合し原子となり地球を構成している最少の元素です。

原子が結合して分子になり、分子が結合した高分子はアミノ酸やタンパク質などの種々なる要素となります。これら要素にから、細胞が形成され、人体を構成します。人間の細胞は37兆個(最近の説)あると言われています。これら細胞がそれぞれの分野で連携し、調和して、分解と生成をくり返し機能を維持しています。

図2.ものの大きさ(藤田貢崇著「ミクロの窓から宇宙をさぐる」より記載)

広大な宇宙の中で、太陽と月と地球の関係が私たちの生命リズムと深い関係にあります。

生命と宇宙リズム

宇宙の中の太陽と月と地球の関係が私たちの住む地上にも大きな変化をもたらし、身体、特に内臓と心にも大きな影響を与えています。
地球は自転しながら太陽の周りを公転しています。地球の自転軸が23.4度傾いていますが、これは月の引力によります。これにより北半球が太陽の方に向いたり、南半球が太陽の方に向くことで、夏や冬の季節変化が生じます。特に日本は四季の変化が豊かに訪れ、生活に潤いと変化をもたらしています。更に、月が地球の周りをまわる間に、地球も太陽の周囲を公転しているので、満潮や干潮があり、月の満ち欠けも起こります。吉田たかよし氏が分かり易い解説(5)をしていますので読んでみてください。
内臓と心の関係は三木成夫氏「内臓とこころ」(6)によると、内臓は「小宇宙」であると述べています。

・すべての生物は太陽系の諸周期と歩調を合わせて「食と性」の位相を交代させる。動物では、この主役を演ずる内臓諸器官のなかに、宇宙のリズムと呼応して波を打つ植物の機能が宿されている。原初の生命球が“生きた衛星”といわ  れ、内臓が体内に封入された”小宇宙“と呼びならわせられるゆえんである。(内臓とこころ、65頁)


私たちの意識が働かなくても、この身体は呼吸し、血液は循環し、脳の活動も支えてくれています。宇宙が生みだした素晴らしいシステムです。そのことも確りと認識しておくことが大切です。

絵に描いた餅は味を実感できない:真実は掴めない

テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老は長いこと日本で仏教の真髄を説いています。長老の本(7)から言葉を引用します。

・集中力を上げて観察すると、ありのままの現象を認識することができます。無常を経験します。そして実践者は、煩悩が起こらない状態を期待するようになります。存在とは固定し止まったものではなく、川の流れのようだと経験するのです。今までの理解と、無常を発見した時の理解は相当違います。発見したという気持ちは巨大な力です。

料理本を隅々まで読んで理解しても、実際に調理して味わってみないと本当の味はわからないし、感動することもない。冷暖自知という言葉がありますが、水を飲んでみなければ冷たいか温かいかは体得できません。

これと同じことが仏教の学びにも言えます。仏教書を読んで多くの知識を得ると分かったような気になりますが、それは頭で理解しただけです。そのままでは絵に描いた餅です。仏教で説かれている良い教えも、実践しなければ人格の向上に寄与しません。
スマナサーラ長老が言われるように実践して無常を発見することが大切です。最近やっとこの道理がわかるようになりました。日常の行動の一つ一つが、川の流れのように、先に先にと押し流されていると実感しています。

            “この宇宙の中で生かされている身心は、かけがえのない存在”

           “世界の全てのものが、留まることなく変化している無常の流れ”

参照文献

(1)太田久紀著「唯識の読み方」(凡夫が凡夫に呼びかける唯識)(大法輪閣、2007年)

(2)藤田絋一郎著「寄生虫博士のおさらい生物学」(講談社、2005年)

(3)高井研著「生命はなぜ生まれたのかー地球生物の起源の謎に迫る」(幻冬舎新書、2011年)

(4)藤田貢崇著「ミクロの窓から宇宙をさぐる」(NHK出版、2017年)

(5)吉田たかよし著「宇宙生物学で読み解く「人体」の不思議」(講談社現代新書、2013年)

(6)三木茂夫著「内臓とこころ」(河出文庫、2013年)

(7)スマナサーラ著「無我の見方」(「私」から自由になる生き方)(サンガ新書、2015年)

 

 

 

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

コメントを残す

*