生きるとは何か - No.22-7

なぜ私が死ぬのか

2022年7月1日発行

数年前に妹が末期癌で入院した時に、どのような言葉をかけたらよいか考えましたが、
死が身近に迫っている人に対して、仏教で知った僅かな言葉をかけても、全く役に立たないことを知り、無力感が残りました。有名ながんセンターに入院しましたが、だんだんとやせ細り、2か月後には亡くなりました。病室で過去の色々な出来事を話し、その場の慰めはできても、妹が繰り返し述べていたのは、「なぜ私が死ななくてはならないのか?」という言葉です。

 苦しい経験

旦那の実家に入り、先方の両親の看護や世話で苦労しました。それが終わったと思った時、東京の大学に進学した子供(娘)が、新興宗教の虜になり、4年後には危うく韓国の合同結婚式に行くまでに洗脳されていました。そこから抜けるのには専門に指導をしてくれる援護団体のお世話にならないと、洗脳された心は素人では束縛から解きほぐすのは難しいのです。

人は洗脳されて、その教義を信じてしまうと、それは間違いであり騙されているのだと言っても、聞く耳を持たなくなるのです。キリスト教系の新興宗教でしたので、救護の専門家が聖書を使い本当の教えは、こうなのですよと少しずつ話をし、拒絶している心に語り掛けることが週2回から3回各1時間かけて4,5カ月かかり、やっと間違いに気づき始めるのです。ほぼ洗脳から回復したのは約1年後でした。

準備段階として、周囲がしっかりとサポートできる条件が揃った家族から救護に入りますので、前後3年以上は掛かっています。
両親は、東京にマンションを借り、その部屋で子供と私達助っ人(妹の夫の兄妹も)が代わる代わる同席し救護の専門家の話を聴くことになりました。同席していたのは、その時にマンションに泊まりに行っていたからです。子供がもし逃げ出して教団に戻ってしまうと二度と救出の機会はなくなるので、両親以外に誰かが部屋にいないと、両親が寝込んでしまった時に逃げてしまう危険があるからです。
救護の場に同席し見た光景は、洗脳された子供は両足を抱え、顔を背けて、聞くことを拒否していました。しかし、個人の意思にかかわらず、耳は勝手に説法の声を聴きとって、少しずつ脳に記憶し、蓄積されていたということです。くり返し良い教えを聴くことで、心が少しずつ変化し、浄化されていく現場を見ることができて良い経験になりました。

この経験は、今から25年前で私も現役サラリーマンの頃でした。平凡な生活の中に、突如このような異次元の出来事が実際に起こるのだとあらためて知りました。

死は避けることのできない現実 

誰でもこの事実は知っています。普段の生活の中では考えないし、考えるのは縁起が悪いと遠ざけています。妹も悪夢から数年後、娘も結婚して二人の孫にも恵まれて幸せになりました。本人も趣味の書道や良い隣人に恵まれて老後の幸福な生活を送っていました。
そのような時に、末期癌を宣告され、一時は快方に向かうかと思えたが、再発して緩和ケア病棟に入ってから、身近に迫る死を見つめ「なぜ私が死ぬのか」と、重い問いを発していました。老後になり、やっと掴んだ幸せが、儚く流れ去ろうとしているのです。本人の気持ちとしては悔しさばかりです。

深く死について考えることは、日常の生活の中ではダブー視さえされ、難しいと思います。どこかのタイミングで深く考えることは大切なことです。この資料を読まれた方がそのタイミングとされたら有難いことです。

テーラワーダ仏教協会の機関誌7月号(2022年)にスマナサーラ長老の法話に「成功者は死を認める」と題しての講義がありました、そこから幾つかの言葉を紹介します。

・今の瞬間で死ぬことが確かであるならば、
行うべき義務・仕事なんかは、一切ないのです。
・死は確実であると分かった人にだけ、
偉大なる安穏と幸福が訪れるのです。
 反対に「吾輩は死なない」と考えている人には、
毎日が地獄になります。
・ブッダの答えは至ってシンプルです。どんな瞬間でも、
死が訪れて命を絶つ可能性がありま
すと理解することです。
・死の観察こそが幸福の教えです。やってみれば、
誰だって幸福になれると思います。  

この簡単な言葉から、妹に贈るべき解決策は分かると思いますが、当時の私の仏教理解ではこのような適切なアドバイスはできませんでした。誰でも折角訪れている幸せを離したくないという「執着」は持っています。それをどのように手放すかは、一般的な考えでは難しい問題です。心に問うてみれば、「何時か必ず訪れる死」を知ることはできます。

今、生きていることに感謝し、残る子供や孫達が「幸せでありますように」、生きとし生けるものが幸せでありますようにと祈ることで、自分の心も浄化され、感謝の気持ちで別れが出来たのです。次のスマナサーラ長老の力強い言葉があります。慈悲の瞑想の意味をはっきりと気づかされました。

 死刑囚に与える言葉

スマナサーラ長老が法話後の質問に答えた時の書き起こしの議事録です。その返答がシンプルで心に響きましたので幹事の方の了解を得て再録します。

2022、5、4北とぴあ3日目「悪行為の償い」の説法の後の質疑応答です。

質問者(大乗仏教の僧侶):すいません、私は死刑囚の方と文通をしているのですが、
長老:ん?うん?
司会:死刑囚、死刑になる人、です。
長老:あ、死刑囚。
質問者:その方と文通をしてるんですけれども、日本では、死を持って、その人の死、命で、償うということになっているのですけれども、あの仏教では、そういう重い罪を犯した人の償いは、どういうふうに説かれているのでしょうか?そういう立場の方ができることって、
長老:うん?
質問者:そういう死刑囚の方ができる事って、どういう、具体的には何かあるのでしょうか?
長老:あなたの質問ははっきりしないよ、何を聞きたいの?
質問者:まあ、、、償いという事。
長老:償いという単語を使いたい?
質問者:う~ん、、、、なんていうか。私はその死刑ということで、え〜と、何か償うことになるかどうか、ということに疑問がありまして。
長老:死刑囚だったら、償う前に殺されるでしょ?
質問者:はい。何か、できる事っていうのは。で。
長老:あなたにそういう人々と会う許可は持っていますか?
質問者:はい。一人。で、あの、手紙のやり取りをしているのですが
長老:手紙のやり取りですか。はい、日本てすっごい残酷な国ですよ。だからそういう宗教の方々にね、会わせれば、バチが当たらないでしょうに。
大体アメリカでも西洋の?(ここは聞き取り不明瞭)国々でもよくやっていますよ。死刑を実行する予定の人々には、自分の好きな宗教の方々と会って、話すことができるんです。まあ説得はさせませんけど。
それでもあれこれ、とかね、話したり、相談したり。日本のやり方はものすごく残酷ですよ。私にも昔あの、オウム(真理教)の死刑決まった方々が手紙で訊くんですよ。
そこで手紙がくるまで、すごく時間がかかるんですね。あの馬鹿どもたちが、読んで読んで読みまくって、それから係の弁護士に送って、それから、こちらに送る。こちらがそれに応えて、弁護士に送ったら、弁護士が刑務所に送って、刑務所の連中があれやこれやと調べて、毒でも撒いているのか?とかね。まあ、もう本当に、もう、、、遅れていますよ。
法律を犯しても、それなりにあれ、ある刑務所があってもいいんだけど、その人々は「俗世間とのコンタクトはまるっきりダメ、アンタは悪いことをしたんだから」というのはいいんだけど、精神まで踏みつける権利はないでしょうに。だから、この手紙のやり取りって何の役にも立ちませんよ。だって、そんなこと、たくさん書けないでしょうに、5分喋ることを手紙に書けますかねえ。
ですから、このシステムを批判したんだけど、あなたはそんな曖昧な精神でね、そういう人々には精神的安らぎを与えることはできないんです。もうちょっとしっかりしないと、ご自分が。
質問者:はい、わかりました。
長老:うん。それで、償いとか、こんななんの意味もないくだらん、宗教的な言葉ではなくて、こういうことでしょ?「悪を犯さない人間がいるのかい?
どんな人間も悪を犯しますよ。罪を犯しますよ。そこでその人の条件によって犯す罪の強弱があるでしょうに。だから、私には、ね、私の身体中が罪だらけなのに、他人のちょっとここら辺に「罪が入っている」と言えないでしょうに。だからそういう人々も、もう、もうもう知るべきことは、誰だって、罪を犯す。で、いきなり自分の残りの人生を方向転換しなくちゃあかんのです。
直ちに心を入れ替えてください。それに、過去でやったことは関係ないんだ」と。
私に手紙を送った人々は、いつでもやっぱり「死刑が実行される前に、何か、預流果にでも達したい」というね。だから、オウム真理教に入っていたおかげでね、笑。道は知っていたんだと。でも向こうはインチキだということがわかっていたんだから、私に「このやり方を教えてください」と。いろんな本やら、いろんな方法で、時間はいっぱいありますよ。と。
瞑想しながら、瞑想すると心に葛藤や混乱が生まれるんだから、(手紙のやり取りは)そのアドヴァイスでしたけどね。
それは私にとっては、すごい楽ちんでしたからね、相手はそれなりに(仏教を)知っていた人だったからね。そういう方々は、間違って罪を犯しただけなんですね。
普通はそうじゃなくて、初めからも性格が悪いしね、まあ、色々でしょう。
だから「これからは頑張る」ということでしょう?答えはね
残りの人生は清らかな心で生きてやる!とね。悔い、なんの心配も、なんと言いますか、後悔することなく、清らかな心で、人は誰だって死ぬんだから、自分の場合は、変なことをやっただけだから、少し、(死が)早くなっただけや、と。
でも死ぬ時は明るい心で、全ての束縛を捨てた気持ちで、はい、どうぞ!という気持ちで、その時間を迎えてください、という道で、適当にアドヴァイスをしてください。
「罪の償い」とかは、成り立たない。
これは仏教の話ではなくて、そこら辺の爺さん婆さんの話なんです。ブッダの話ではないんです。
どうやって償うんですかね?!
この膨大な罪を犯しているんだから! あなたも私も!死刑囚でも。
この膨大な罪を犯しているんだから! あなたも私も!死刑囚でも。どちらが重いかわからないよ。
今まで、過去からもやってきた数々の罪の重さはね。
だから、私にも自慢できないよ。「俺は坊主だからね、あんたたちと違いますよ」とかね。
過去はみんな同じだから。だから、償いというのは成り立たないんです。
償いっていうのは、私は、この人のほっぺたを殴ったら、「すみません、すみません。間違いました」そんなもんです。
「じゃあ、まあ、その代わりに、ご飯をレストランで差し上げます」とかね、「あなたの好きな食べ物を買ってあげます」とかね。これが償いなんです。
償いというとそんな程度で、私は償いという単語は、正しく理解しているかどうかわからないんだけど、私はちょっと英語で、compensation(賠償、償い、埋め合わせ)という単語が今、頭に回転しているんですね。
ええ、償いっていうのは、まあ、そんなもんですよ。
そこで、例えば、死刑になるのは人を殺した人々だけでしょうに。そういうのは心配する必要はないんです。一旦、やっちゃったんだから、終わってしまったんだからね。やったことはね。
それはもう その業の力によって、適当になんとか結果が出てきますから、それは管理できない。
償いというのは論理的には、我々は日常生活でやってるアホなことに、人に害を与えるわ、損するわ、お金を貸してもらって返せないわ、とかね、笑。
まあ、そんな程度のものには償えますよ。他は心を清らかにすることしか、道がないんです。
悪業があっても、あっても、清らかな心には、定着しないんです。
それが法則的な、法則とはそういう法則です。
だから慈悲の瞑想を教えるとかね罪というのはほとんど生命に関わるものなんです。
罪はどういうふうに見ても、命がかかっているんです。
例えば、嘘をつくこと。
こいつに(マイクロホンに)いくら嘘をついても意味がないでしょうに。
貶してはならんや。「なんだこのマイクロフォンは」と貶しても意味がないんです。
だから、この罪、不全、悪行為というのは必ず、裏に生命がいるんです。被害者がいるんです
嘘をついたら、被害者がいるんです。殺生したら被害者がいるんです。
邪な行為をしたら、被害者がいるんです。酒飲むなよ、というのが五戒にはあるんだけど、酒を飲んだら、自分がだま~って寝ているならいいんだけどね。周りに被害を与えないんですね。笑。
そこで、周りの人々に被害を与えないで、黙って寝る、と。その人は自分に被害を与えているんです。だって脳が壊れますからね。
だからアルコールというのは、一応、体にはある成分であるし、全く、酔わない量をチェックして、
食欲とか、あれ、いろんなことを言ってますからね、雰囲気のために、ちょっとワインを飲んでみるとかね、それはそれほど、酒を飲んだ事にならんとは思いますけど、酔うこと、を狙ったら、戒律に触れたことになります。
酔うことで、脳細胞がものすごく、困るんですよ。結構死ぬんです。酸欠状態で。脳細胞が死んだら復活はしない。だから、人間として生きるために人間が考える能力を使わなくちゃいけないでしょう?それを壊すことは、ものすごい、自分に対して被害なんですね。
まあ、そういうことで、他人にも、被害を与えるし、自分自身にも与えるし、まあ、とにかく、生命が絡んでいるんですよ。罪の場合は。生きることは生命と一緒に行うことだから。
そこを言ったのは、心、だから、慈しみを実践すれば、結構このだらしない生き方から、なんとか、解放されます。
償いという単語を使いたければ、それが償いになります。
最終的な答えは慈悲の瞑想なんですよ。
慈悲の瞑想で、頑張って(瞑想して)どんな生命にも、慈しみを感じる心が生まれたら、もっとたくさん何人かの人の命を取っていても、まあ、梵天には生まれますね。
これ人殺しをやって 梵天に生まれたって言ったら、なんか変でしょう?笑。変ではないんです。
なぜならば、世の中で、そういう事はよくあることでしょうしね。

アングリマーラ尊者のエピソード知っているでしょ?
たくさんの人を殺したんですね。でも悟ったでしょうに。
そこでは、アングリマーラ尊者は償うことはできませんでした。
死んだ、殺した人々に与えた、あれ、損はそのままでしょ?
その代わりに自分の心を完全に清らかにしてしまっちゃったんです。
だから、被害者たちはいくら恨んでも。アングリマーラ尊者のことは、結構恨まれていたんですよ。だって、たくさんの被害者がいたんだからね。まあ恨んでも意味がないんです。
ブッダの教えは「聖者だから、恨むなよ。新たに恨んでもあなたにバチが当たるんだよ。」
悔しい話ですけどね。
アングリマーラさんが在家の時に、自分の息子を殺したならば、お母さんが恨んでいるでしょ?
ブッダがお母さんに言うんです。「恨むなよ、あの人は聖者だよ」と。
「納得いかん」と言うかもしれませんだけど、仕方がない、その場合は。
まあ、償いということは、自分の心を清らかにすることですね。そこで、自分がやった悪行為の結果は自分にもどってこない状態になる。日常生活の場合は、まあ色々やっているアホな事の結果には、それなりの償いがありますけどね。
だからあんたが言ったみたいに、このようにして償いなさい、ということで考えちゃうと、相手を助けることができなくなるんです。
だって、その方法もないんだからね。自分が死刑になったからといって、やった罪はチャラにならない。
チャラにしたいでしょ?だったら、心を清らかにすることですね。
後悔しないで、生命に思う存分慈しみを育てる、育てる、育てる、育ててみる、、、死刑を執行する人々にも、「ありがとうございます」と言うところまで。「お願いします」と、いうところまで、人格を育てられますよ。
そんな風に、なんか形にしてみてください。
質問者:どうもありがとうございました。

スマナサーラ長老の説法は力があります。素晴らしいと思いました。慈悲の瞑想を継続することで心が向上し清らかになると教えられていても、ついついサボっている自分に気づかされました。

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