生きるとは何か - No.22-10

生きるとは死と表裏一体

2022年10月1日発行

最近は人生百年時代などと言われるほどに医療が進んで長寿者が増えたことは喜ばしいことです。しかし、生きている限り必ずどこかで死に遭遇すことになります。例えば末期癌になって余寿命は3か月と告げられたらどうしますか。
誰でも自分のこととなると死にたくないという強い気持ちになります。私の妹が70歳前半でなくなりました。若い頃から苦労して、やっと孫も出来て、成長を楽しみにしていた日々が訪れているのに何故、私が今、死ななくてはならないのかと苦しんで死にました。
癌の場合は死まで時間の余裕が与えられますが、その残された時間をどのような思いで過ごすかによって、苦しみだけの時間となるかは本人の心の持ち方で天国と地獄の違いがでてきます。また、天災や交通事故などで急死した時は残された親族は諦め切れない思いによって苦しみが長く続きます。

死の迎え方

死ぬことに関して二つの事例を考えてみます。
死ぬ時までの時間の余裕がある場合と、突然訪れる死との違いには大きな点で異なります。

突然の死の場合は、本人は苦しむ間もなくすべてが終わっています。私の体験ですが転倒して頭を強打して意識を失い、救急車で病院に運ばれましたが、その時に本人は全く痛みも感じていませんし、心配の気持ちも起りません。幸いに、後で意識は戻り、事なきを得たのですが、その事故のとき思いました。死ぬとは意識が無くなることで、生きていることの全てが終了したのであり、本人は何も心配することはないのだと思いました。本人にとっては、なにも心の準備や覚悟はいりません。この世に生まれ、営んだ生活の全てが終了したのです。しかし、残された家族は、亡くなった子供や夫や妻の追憶の中で大きな苦しみを受けることになります。残された人は、亡くなった人の将来あったであろう出来事を妄想して不憫な気持ちになり、その心から何時までも離れることが出来なくて、苦しみが増えて、心の重みになってきます。
どうすればよいか。亡くなった本人は戻りません。偶然の出来事です。亡くなった人の心配をすることはないのです。残された人の心が心配です。生きていたら死は必ず来ます。何時なんどきに死に遭遇するかは誰にもわからないのです。そのためには、日頃から死について直視することが大切なのです。死を直視するとは、今生きているこの時がすべてであり、生きていることに感謝し、一日一日を大切に過ごすことです。
私たちの身体は一瞬一瞬に変化している肉体であり、取り巻く環境も時々刻々変わっている無常の流れの中で生きていることを、直視できれば、突然の死に慌てふためくことが少なくなります。

執行猶予付き命の場合

癌を宣告され余命3ヶ月と告げられたら、誰でも心は騒ぎ、沈むことでしょう。
しかし、ある時間が与えられたのです。もう三か月しかないのか、あれもしたい、これもしたいと多くの思いがあるのに、ああーこれで終わりだと心が沈むのは普通のことだと思います。刻々と迫る死を感じて悩んでいても時間は経過します。この場合も何れ必ず来る死なのです。覚悟を決めることです。残された時間を今まで支えてくれた家族や友人に恩返しとして、感謝を込めて一日一日を過ごすことが出来れば、幸せな濃縮された時間となることでしょう。
人生、生きていれば次から次と想いは尽きないものです。旅行の好きな人なら行きたいところはきりがなくあると思います。しかし、すべてを満足することはできません。

「足るを知る」という言葉があります。欲望は際限がありません。日常の当たり前の生活ができていることの素晴らしさに気づくことです。願望や欲望を抑えることは生きていく上での極意のようです。

大本山総持寺貫主や曹洞宗管長を歴任した板橋興宗老師(1)が生きている今に気づくことの大切さを語っています。

・今の息づかい、今、目前にものごとを見ているその事実、それが自分の「いのち」ですよというところに気づくことが重要なのです。今の事実に眼を向けさせることが大事なのです。
・私が息をしている。私が死ぬ。私が・・・と、いつも“私”が中心になってしまうとき、それは真実から離れます。それは錯覚なのです。私は「いのちとは出会いだ」とも言います。すべて出会いです。出会っている事実がいのちです。<時>として積み重ねるのです。時間というと、私たちは観念としての時の流れを連想してしまいますが、時間という存在はありません。一刻一刻が事実で、それを「縁」といったり「いのち」といったりします。・・・実際に「今、ここ」以外に事実はありません。今というのは、現実です。それは出会いというか「いのち」というか、その<時>です。それ以外にはありません。それは宇宙始まって以来の「今、ここ」です。だから「在り難し」であり、私にとっては唯一の真実です。今、ここで行なっていることに注目し、そこにいのちが息づき、現実に対面している生き方が問われているわけです。(152-153頁)

今、生きているこの事実以外に、私たちがこの世に生を受けて存在している<時>はありません。明日何が起こるかは誰も分からないのです。一日一日を精一杯生きることが全てです。

生きることの本質を掴んだ話

NHK朝の連続ドラマ「ちむどんどん」でレストランのオーナー役を演じていた原田美枝子さんが、最終回(9月30日)終了後の「アサイチ」にゲスト出演していました。俳優としての経歴の中で、若い時は自己中心的なの性格でしたと紹介された後、出産を経験した時の話に及んで、それを聞いていた私はゾクッとしました。彼女は生きることの本質を掴んだと思いました。
放送時の原田美枝子さんの話の概要を記載します。

・20代の若い頃は、100人中99人は敵!と思ってツゥパリ美枝子と言われ、そうやって自分の気持を保っていたそうです。その原田さんが子供を産んだ時、自分は食べて寝ていただけなのに、何でこんなにちゃんとした赤ちゃんが生れてくるのか。心臓は動いているし、誰が作ったのかと思った。もしかして私の心臓も誰かが動かしているのかと、それまでは自分の心臓も自分で動かしていると思う自分がいたそうです。
大きな力が自分も生かし、赤ちゃんも生かし、宇宙全体を活かしていると、ガーンと気づいたとのこと。そんな大きな強い力があり、それが自分にも届いてきているから今の自分があるのだということを出産体験で気づいたそうです。そのころから少しづつ性格が丸くなったと語っていました。

原田さんは、身体全体で大きな力を感じたのです。
先の板橋老師の言葉をもう一度確認して見てください。

私が息をしている。私が死ぬ。私が・・・と、いつも“私”が中心になってしまうとき、それは真実から離れます。それは錯覚なのです。私は「いのちとは出会いだ」とも言います。すべて出会いです。出会っている事実がいのちです。・・・
今、ここで行なっていることに注目し、そこにいのちが息づき、現実に対面している生き方が問われているわけです。

長年、禅の修行をして到達した老師の境地と同じ経験をしたと思います。

もう一つ禅からの教えを紹介します。これは元花園大学学長(2)が若い人に贈った言葉です。

仏とは、もともとはインドの言葉である「Buddha」を音訳して「仏陀」としたことに由来するもの、「悟れる人」の意味があります。では、何を悟ったかといえば、この限られた肉体に縛られ、限られた条件の中に閉じこめられているように思っていた自分が、実際には限りなく自由な「いのち」の現われであった。この事実を自覚すること、それが「悟り」なのです。この事実を悟った人を「仏」といったのです。

・すべての存在は、それ自体で満ち足りた存在であるからです。どこにも足りないという部分はない。仮に目が見えなくても、耳が聞こえなくても、足が不自由であっても、そのような外見と無関係に、あなたたちが本来的に具有している<いのち>は、完全に満ちたものであって、欠けたところは全くないのです。

・人は、自分が何を求めているか、よくわかっていないのです。自分が求めているものが自分の内にあるということが徹底して理解されたなら、もはや争うというものは起こりえない。争いは、自分の外に何か大切なもの、本質的なものがあるという錯覚に基づくのです。これを、仏教では「妄想」といいます。

原田さんは仏教の根本である「限りなく自由な「いのち」を自覚し、体感した」ことになります。知識でなく、直接に身体で感じ摂ったことで人格が向上し、その後の生き方に大きな影響をもたらしています。素晴らしい体験です。

最近亡くなられた稲盛和夫氏の言葉を紹介します。

「人生の目的とは、持って生まれてきた魂が
少しは美しい魂になったか、ならなかったかである」
「どんな境遇であれ、
心のあり方によって幸せはそれぞれに感じられるもの。
そう感じられるようになるためにも、まず最初に、現在こうして生きているだけでも幸せだという感謝の念が起こってくることが大事」

「私の死というものは、私の魂が新しい旅立ちをしていくめでたい日だと思うのです」
「人生を生きる意味とは、まさに自分の魂を磨くことにある」

人生の達人の含蓄ある言葉です。頷けると思います。

参考文献:

  • 板橋興宗、有田秀穂「われ、ただ足るを知る――禅僧と脳生理学者が読み解く現代」(佼成出版社、2008年)
  • 盛永宗興「お前は誰か 若き人々へ」(禅文化研究所、1996年)
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