生きるとは何か - No.23-4

メメント・モリ(死を想え)

2023年4月1日発行

最近、アニメ漫画などでメメント・モリという言葉が使われています。何だろうと思っている時に、友人の僧侶(日蓮宗)の方からの手紙の中に、メメント・モリに関するコピーが添付されていて、そこには強烈な写真のコピー(犬が人間の死体をたべている)が添付されていました。写真家・作家の藤原新也氏(1944年に生まれ)が1983年に刊行した本で、以来30年以上にわたり読み継がれてをり題名が「メメント・モリ」でした。興味をそそられ早速購入しました。それは写真集ですが、インパクトのある写真に短い含蓄のある文章が添えられています。
メメント・モリの言葉を調べて見ると、旧約聖書にあるラテン語で「死を想え」「死を覚えよ」「死を思え」「死を忘れるな」など訳は色々ですが、人間必ず死ぬことの事実を直視するようにという戒めの言葉です。

  旧約聖書に言葉が!

旧約聖書の何処に関連するのか、調べて見ると哲学者の田辺元が最晩年に「死の哲学」を構想し、その哲学の概略を示すために発表された論文が「メメント モリ」と題されているとのこと。旧約聖書の詩集90―12節にある、
「残りの日々を数えるすべを教え、智慧ある心を私たちに与えてください。」
に由来するとの記述があります。

人間が生の短さと、死は一瞬にして来ることを知れば、神の怒りを恐れてその行動を慎み、神に仕える賢さを身に付けることができるであろうと、死を忘れないように人間を戒めたまへとモーゼが神に祈った言葉とのこと。その要旨がメメント・モリという短い死の戒告です。

更に、手元にある聖書(聖書協会共同訳、日本聖書協会、2018)で詩集90を調べると、もう一つ目に留まる箇所がありました。90-10節に

   私たちのよわいは70年、健やかであっても80年。
   誇れるものは苦労と災い。
   瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。

わが身に当てはめても感じるところがあります。

  アニメ漫画

漫画の「メメントモリ」の物語りは人間の寿命をテーマとして展開されています。
作者の想像力には感心します。内容の紹介記事の書き出しは次のようです。

          

「天涯孤独の主人公・壱心の瞳に宿る「寿命が見える」力。ある日、彼は転校先の学校で一人の少女と出会う。意識せず視てしまった彼女の寿命は「78時間」。死の定めを覆し彼女を救うことができるのだろうか―…!?」

漫画の第一話「死神が時を打つ」の書き出しの絵コマの部分から文字だけ拾ってみると、

  生き物には 寿命がある その長さは それぞれ (1ページ)
  本来なら それがいつまでか 誰も知る術がない (2ページ)
  命の刻限!(3ページ)

若い人に死という厳然たる事実をどの程度に伝えられるかは分かりませんが、一つの有意な問いかけとなると思います。硬い頭の私などはとても思いつかないストゥリーです。どんな展開が続くのか読んでみたいと思いました。

 現代にも対応する言葉「メメント・モリ」

今の世界でも、ロシアによるウクライナ進攻という一方的に領土拡張を主張する一人の独裁的リーダーにより、多くの人々が亡くなっている現実があります。日本でも、日常的に殺人事件がニュースで報じられていて、死という言葉が日常生活の中に氾濫しています。しかし、これらの死は他人事であり、直接自分の身に影響が及ぶこともなく、多くの情報の一つとして扱っています。考えてみると、ニュース画面には亡くなられた方の死体の写真は載せられることもなく伏せられているため、あくまでも言葉での情報です。死という言葉は単なる概念であり、感情の入る余地がありません。乾いた情報であり、直ぐに記憶から消えてしまいます。また、多くの人は死の話は、縁起が悪いと意識的に遠ざけてしまいます。

藤原氏の本は写真集でもあるので、死の状況を許される範囲で覗かせてくれています。添えた言葉にも重みがあります。一例を次に掲げます。

この写真は本の24-25ページの写真とそれに添えられた文章です。多分、インドのガンジス河の河畔にある死体焼却場で撮られたものと思われます。燃える薪の中に人間の足が僅かに覗いています。近親者が、燃える薪の傍で見つめている姿も別のページにあります。

死の問題は誰でも頭の片隅には入っていて、高齢になれば、祖父母や両親との死別は経験していることです。別れの時の様子は、死別した一人一人の生前の生き方によって思いは大きく異なり悲しみの程度もまちまちです。本の最初に書かれている文章は、(‥‥の箇所は文章を省略しています)

  いのち、が見えない。‥‥ 死ぬことも見えない。‥‥
  本当の死が見えないと本当の生も生きられない。
  等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識を
  かためなくてはならない。
  死は生の水準器のようなもの。
  死は生のアリバイである。

現代の我々の眼前には死は隠されています。日常生活でも意識的に話題にしないようにしている。私たちの心には生の強い執着はあるが、死と対峙した言葉はない。「本当の死が見えないと本当の生も生きられない」とは深い意味のある言葉と感じます。日常生活では、死を深く見つめることはありません。

  死を見つめた宗教学者

ここに一つの事例があります。戦後の代表的な宗教学者と言われており、元東京大学図書館館長を勤めた岸本英夫教授です。自身の死に直面したときの心の動揺とそれを乗り越えていった心の軌跡が著書「生を見つめる心」(講談社、1973年)で詳細に報告されています。

アメリカに滞在中(スタンフォード大学客員教授)の51歳の時に癌を発症し余命半年との宣告を受け、手術により健康を回復した。しかし、忘れかけた頃に癌が再発し、10年に渡って死と向き合うことになる。自分自身が癌に侵される前は、神などの信仰や、死後の理想世界としての天国や浄土の存在はまったく信じていなかった。しかし、死が予告されると、生への強い執着で心は張り裂けるように落ち込み、生命飢餓状態になったと述べています。

宗教学者と言われる人でも、死を自身に突きつけられた時に、初めて生きたいという思いが強く湧くと共に、死の恐怖心が起こったと述べています。長い悩みの末に、彼は人間の根本的な態度としての、生き方を掴んでいるようです。
岸本氏はウイリアム・ジェイムズ(1842-1910)の著書「宗教的経験の諸相」から多くを学んでいる様子が伺えます。

・ジェイムズは人間を「病める魂」のもち主と、「すこやかな心」のもち主とにわけている。‥‥ この「病める魂」のもち主を「二度生まれ型」ともよんでいる。‥‥これに反して「すこやかな心」にとっては、現在の、時々刻々の生活が、生きがいにみちている。その日その日が楽しい。生きていること自身が、直接的な価値をもっている。‥‥ この人生に、じゅうぶん満足しているので、死後の世界のことなどには興味がない。ジェイムズは、これを、「一度生まれ型」と称している。

彼は「一度生まれ型」を選んで自分を納得させていたようです。しかし、私がジェイムズの同じ本(多分訳本が違う)を読んで思ったのは、本で言わんとする主旨と反対の側を選択したと思われました。「二度生まれ型」が気づくべき人間の真実の姿です。宗教で言う回心を経ることで、真実の姿に気づくのです。

ジェイムズの本は東方学院元講師の加藤氏から紹介されて昨年末に読んでいました。
詳細は「生きるとは何か」(No.22-11)「木を見て森を見ず」に経緯を書いていますのでご参照ください。
生きていることは死の裏付けがあって成り立っています。知識としては誰でも知っています。しかし、人間の真実の姿に気づくために、禅では坐禅修行が求められています。人によっては固定観念が強く、気づくまでに長い時間がかかるきょうです。
いろいろと「死を想え」を書きましたが、私も死に直面したときどうなるかはわかりません。生命飢餓状態にならないよう願っています。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

コメントを残す

*