生きるとは何か - No.23-10

「私」はいません

2023年11月1日発行

日常生活の中で、誰もが毎日せわしく活動している「私」がいると、実感するのは普通のことです。朝起きてゴミ出しをして、玄関先にある落ち葉を片付けて、朝食を食べてから新聞を読む。これはある老人の一日の活動の始めです。今は老人となっていますが、以前は社会に出てバリバリと仕事をこなしていました。振り返ると青年、中年、熟年とそれぞれの私がいました。そこには姿、容貌は変わっても同じ「私」がいたと考えています。

このような見方は普通のことで、何ら疑問に思いません。しかし、ちょっと立ち止まって考えてください。私たちは生まれてからズーと絶え間なくこの身体は変化し続けていて、一度も同じ状態や状況はありません。しかし、一週間前、昨日と近場の姿はほとんど変化をしていないように見えますから同じ「私」と考えてしまいます。このような、同じ「私」がいるとの思いから離れるには見方を変えると気づくことができます。

ミクロの視点で見る
漠然と自分を眺めるのではなく、心の内側に視点を移すと別な景色が見えてきます。
少し堅苦しい話になりますが、仏教に関心を持つと多くの人が最初に手に取る本として「般若心経」があります。沢山の本が出版されており、多くの註釈や識者独自の見解で解説がなされています。今回はインド哲学者である中村元氏(1)(2)と生命科学者の柳澤桂子氏(3)の現代語訳を取り上げて比較してみます。そこには「私」はいません。

中村元氏の現代語訳
最初の一節は有名な書き出しである、「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空。度一切苦厄」の部分の現代語訳です。

求道者にして聖なる観音は、深遠な知恵の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性から言うと、実体のないものであると見極めたのであった。

このポイントは五つの構成要素です。五蘊と言い、色受相行識で構成されています。色とは身体や外部にある物質のこと、受相行識は精神作用に関係するものです。人は身体と心で構成されていて、それぞれが、それ自体で単独で存在しているものではなく、相互に関連して、実体というものはなく、その本当の性質は「空」であると見極めたと言っています。そのことにより、一切の苦しみから解放されたのです。

これに続く次の第二節は「舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受相行識、亦復如是」です。現代語訳を示します。

この世においては、物質的現象には実体がないのであり、
実体がないからこそ、物質的現象である。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。
また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。
およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、認識も、すべて実体がないのである。 

この現代語訳だけでは理解が難しいと思います。目に見える景色、耳に聞こえる音、鼻で匂うもの、舌で味わうもの、身体で感じるもの、すべてに実体があると思っています。しかし、絶え間なく変化しています。変化するから新しいものが生まれます。出来たら参考資料(2)を手に取って読んでください。不親切のようですが、解説を入れると文章が長くなるのでここでは省略いたしますが、次の柳澤桂子氏の解釈のベースになっていると思います。

柳澤桂子氏の現代語訳

柳沢桂子氏の書いた「生きて死ぬ知恵」(3)に繋がります。上記の二つの節を柳澤桂子氏は科学者らしい視点で次のように訳しました。 

 ・すべてを知り覚った方に謹んで申し上げます。
  聖なる観音は求道者として、真理に対する正しい知恵の完成をめざしていたときに、
  宇宙に存在するものには、五つの要素があることに気づきました。
  お聞きなさい
  これらの構成要素は実体をもたないのです。
  形のあるものは形がなく、形のないものは形があるのです。
  感覚、表象、意志、知識もすべて実体がないのです。 

生命科学者らしく、次の「色即是空、空即是色」の見方には特徴があり、よりミクロな視点にまで思考を深めています。

  ・お聞きなさい。
  私たちは、広大な宇宙のなかに、存在します。
  宇宙では、形という固定したものはありません、実体がないのです。
  宇宙は粒子に満ちています。
  粒子は自由に動き回って形を変えて、安定したところで静止します。
  お聞きなさい。
  形あるもの、いいかえれば物質的存在を、
  私たちは現象としてとらえているのですが、
  現象というものは、時々刻々変化するものであって、
  変化しない実体というものはありません。
  実体がないからこそ、形を作れるのです。
  実体がなくて、変化するからこそ、
  物質であることができるのです。 

現代科学では宇宙に存在するものは原子や更に小さな粒子で構成されていることは認められた事実です
このような思考に至った経緯を柳澤さんがNHKラジオ深夜便(2006年8月1日)で語っています。その内容を本として「ラジオ深夜便こころの時代―特選集」(4)に再録されていますので、そこから引用します。未知分野への取り組みに対する過程が参考になると思いますので紹介します。

柳澤さんは遺伝学の研究者として精力的な研究活動中の31歳の時に原因不明の難病に見舞われ、その後三十数年の病棟生活の中で、彼女が救いを見いだしたのが、般若心経の世界とのことです。中村元氏のテレビ番組をみて、興味を持ち、先に示した般若心経の本(1)を読み始めたが般若心経そのものに何が書いてあるのかは、全く分からなかったそうです。それでもそれを何度も何度も、十年ぐらい読み続けていたそうです。そのうちに、般若心経の塊が、なんとなく、少しずつほぐれてきた時、ある日突然、編集者から現代語訳の誘いの手紙をもらい、面白いと思い引き受けたそうです。とりかかったがやはりよく分からないが、般若心経の根本には原子論があると以前から直感的に思っていたそうです。

柳澤さんは次のように語っています。
仏教に「空」という言葉がありますね。般若心経を読んでいますと、この宇宙は、それ以上分割することのできない小さなものでできている、というんですね。それには、色も香りも音も感覚もありません。そして小さなものはいつも動き回っていて、お互いがさまざまな形に組み合わさっていろいろなものを形作ります。時々刻々と変化して、実体がない、この実体を持たない小さなものがすなわち「空」だと。これは、まさに原子論です。そこで、「原子」と言うとちょっとわかりにくいと思いましたので、私は「粒子」という言葉を使い、粒子の動きとして般若心経を訳したわけです。
宇宙と私たちは、一体なんですね。生きて動き回っている私は、常に空気を吸って炭酸ガスを出しています。炭酸ガスの分子は、周りの分子と入り交じっていく、「私がここにいる」と言っても、それは完全に固定された「私」ではない、流動的な「私」なんです   ね。そしてそれは、宇宙と一体なのです。ですから、「私がいる」という意識は錯覚で、「私」はいないんです。
(司会者)それは、死ぬことと違うのですね。
・ええ、死ぬこととは違うのですね。「私」「あなた」という考え方は人間の錯覚であって、その辺の机やいすと同様、粒子の集合体にすぎない。本来、みんな一元的(あらゆる現象が、一つの原理によって成立するさま)なものなのです。そういうふうに考えましたら、わからなかった般若心経をすっと訳すことができました。

当時(2010年)松原哲明和尚(私が最初に師事した和尚)も存命で柳澤さんのこの解説をサポートされていました。今でも、真理を突いた素晴らしい訳だと思っています。
本を読んだときに、何となく分かった気持ちになるのですが、繰り返し、繰り返し読んで、そーか!と腑に落ちるまでには結構時間がかかります。腑に落ちないと折角の知識も身に付きません。一過性の知識としてすぐに忘れますから、行動に影響が現れることはないと思います。
柳澤さんが自我に気づいたときのエピソードを紹介しています。電動車椅子で散歩をしていたときに、「大変でいらっしゃいますね」と声をかけられたとき、いつもなら気持ちよく挨拶を返していたのに、そのときは、違いました。

・「私は、“かわいそうな人”として哀れみを受けたのかしら」と、心にひっかかったんですね。そのとき、何か大きなものにドーンと背中をつかれたような気がして、「それは、『あなた』がそこにいるからだ」という声が聞こえたんです。「あなた」とはつまり、自我です。自我がなければこの世に苦しみはないんだということが強く感じられて、それ以来、とても楽になりました。 

この経験から柳澤さんは、宗教の本質に気づかれたようです。悩みを聞いてもらい、慰めをもらうものと思っていたのが、自身で気づくことで心が晴れて、幸せな感覚になる、と覚ったようです。その際、人間の脳内にはモルヒネに似た脳内快感物質(エンドルフィンなど)が分泌されていることが科学的に分かっています、と述べています。

僧侶の玄侑宗久氏の般若心経の本(5)に次のような言葉を見つけました。

・知的に明確に知ることで得られるのは、やすらぎではなく単なる満足にすぎません。知的に知る主体は「私」だからです。「私」には、断片化された世界を安易に「全体」と勘違いする危険もありますのでご注意ください。長年、世界の中心であるかのように意識を持ちつづけた「私」の殻は、相当に強固なのです。
・人が成長するとは、むろん多くを知ることではありません。無始と呼ばれる始めなき「いのち」を支える関係性(縁起)を、いかに実感していくか、それ以外に人間の成長する道はないはずです。 

強固な殻を破るのは根気のいる仕事です。繰り返しの学習と気づきです。無常を体得するにも気づきが必要です。
最近の話題ですが、絶えず変化している「私」は無常な存在であり、「プロセス」なのです。西洋の哲学や宗教関係の本では実体があるとする「実体の存在論」が主流でしたが、最近は、存在するものは「プロセス」であるとの見方が主流になってきています。宇宙に存在するあらゆるものが時々刻々と変化している状態を仏教では古くから「無常」と表現しますが、西洋では「プロセス」という言葉で表現しています。

  • 中村元、紀野一義 訳註「般若心経、金剛般若経」(岩波文庫、1984,29版)
  • 中村元訳、堀内伸二編集、平山郁夫画「般若心経」(手帳)(東京書籍、2020,11版)
  • 柳沢桂子(文)、堀文子(画)「生きて死ぬ知恵」(小学館、2005、3版)
  • 柳沢桂子「ラジオ深夜便こころの時代特選集」(NHK文化センター、2001)
  • 玄侑宗久「現代語訳般若心経」(ちくま新書、2006)
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