生きるとは何か - No.24-2

無宗教と言われる日本人の信仰心

2024・2・1発行

新年は多くの人が神社や寺院に初詣に出かけ、健康と安全や世界平和、商売繁盛など人それぞれの願いが叶いますようにと参拝します。初詣参拝者ランキングをインターネットで調べると上55位までは以下のようでした。

1位 明治神宮(東京都)319万人 2位 成田山新勝寺(千葉県)298万人 3位 川崎大師(神奈川県)296万人 4位 伏見稲荷大社(京都府)277万人 5位 鶴岡八幡宮(神奈川県)251万人
これらの神社仏閣だけで1000万人以上の人たちが初詣をしています。
全国でみれば国民の半数以上は近隣の神社や寺院に出かけて、お賽銭をあげて祈りを捧げていることでしょう。
この数字だけをみると多くの日本人は信仰心が篤いと思います。しかし、ここで問われるのは、信仰心の中身です。他人の心の内は分かりませんので、我が家の初詣を述べます。近くにある杉山神社にお参りしてきました。神聖なもの(神様)に手を合わせ、家族の幸せと、世界が平和になりますようにと願いをしました。甘酒を飲みほっこりとした気持ちで帰宅しました。杉山神社についてはニュースレターNo.42(*1)に書きました。平安時代からの歴史があり、東京湾に流れる鶴見川に沿って44社もあるとのことです。初詣した杉山神社は人通りの少ない小高い場所にあり、僅かな森に囲まれて、ひっそりと佇んでいます。普段はお参りする人は少ないと思われますが、春、夏、秋、冬と年間を通して行事が行われています。古くからの正月行事にならっての習慣での参拝です、深くは考えていませんでした。

神社が教科書から消えた

戦後直ぐに、小学校に入学した私は、中学、高校の社会や歴史教科で、仏教や神道について習ったかどうか定かな記憶はありません。最近まで、神社について興味も少なく、信仰心もあまりなく、漠然と慣習として参拝する程度でした。しかし、数年前から古墳に感心を持ち、私たちの先祖のことを調査しはじめると神社や神道にいての興味が深まり、神社や古墳巡りを始めています。
神社や神道について、教科書への記述がどのような状況なのかチャットに聞いてみました。

神社とは、日本の古来の信仰である神道の聖地で、神々を祀る場所です。神社は日本の歴史や文化に深く関わっており、多くの祭りや伝統芸能が神社で行われています。しかし、近年の教科書では、神社に関する記述が減少しているという指摘があります。その理由は、以下のようなものが考えられます。

  • 教育基本法の改正:2006年に教育基本法が改正され、教育の目的に「愛国心」や「伝統文化の尊重」が盛り込まれました。しかし、これに反発する教育者や教科書編集者が多く、神社や神道に関する記述を削る傾向が強まりました。神社や神道は、戦前の国家神道や軍国主義と結びつけられ、愛国心の押し付けや歴史修正主義とみなされることがあります。
  • 教科書検定の厳格化:教科書は文部科学省の検定を受けなければなりませんが、近年の検定は厳格化しており、教科書の内容や分量に制限がかかっています。神社や神道に関する記述は、歴史や社会の教科書において、他の重要な事項と比べて優先度が低いと判断され、削られることが多くなりまし
  • 多様性の尊重:日本の社会は多様化しており、多くの宗教や文化が共存しています。そのため、教育の場では、特定の宗教や文化を優遇することは避けるべきだという考え方が広まっています。神社や神道は、日本の伝統的な宗教や文化として、他の宗教や文化との平等性や相互理解を損なうという懸念があります。

一般論としてはよく説明がなされています。しかし、神社や神道は、日本の伝統的な宗教や文化として、他の宗教や文化との相互理解を損なう懸念があると書かれているのは、国として、意識的に神社や神道を避けていると感じます。

 歪められた国家に対する意識

最近の高校の日本史の教科書「詳説 日本史」(*2)を見ると、古事記や日本書紀については、簡単な編纂の経緯が書かれているだけです。古事記に関しては注記に「神話は、創世の神々と国生みをはじめとして、天孫降臨、神武天皇の東征、日本武尊の地方制圧などの物語が律令国家の立場から編まれており、そのまま史実とはいえない。」と小さな字で書かれてそれ以上の説明はありません。

一方、仏教については、法隆寺やその他の寺院の解説や写真が沢山記述され、仏教の伝来からその後の進展までかなり詳しく記述されています。しかし、現在の日本の文化に大きく関連している神社(伊勢神宮、鹿島神宮、出雲大社など)や神道についてはまったく述べられていません。これは戦後、米国の占領下で、GHQが日本の軍国主義を生み出した源泉は「国家神道」であるとして、「神道指令」を発令して政教を分離して、神道を教育の場から排除したことが影響しています。戦後の学校教育を日教組が取り仕切るようになって、国歌や国旗の掲揚も反対する教師もいて、それがまかり通っている現状があります。神社や神道は、ことごとく教育の場から排除されたことが、人々から国という観念が希薄になったことに、大きな影響を及ぼしていると思います。

文化として根付いている神社の祭り  

我々庶民の伝統文化として消えることなく神社や神道は深く根付いています。私たちの身近な例をみても神社の年中行事として盛大な祭りが行われています。私の例ですが、中学・高校と渋川市に住んでいました。神社の記憶は、実家の近くにある小さな諏訪神社と、町の山手にあたる伊香保温泉に向かう坂道を登った途中にある八幡宮です。普段はひっそりとしていますが、新年は初詣の人で賑わっています。母親はしばしば、心配ごとがあると八幡宮にお参りしていました。

特に夏祭りでは多くの山車(各町会の19台の山車)が繰り出し、八幡宮への急な坂道を引き上げる八幡のぼりがクライマックスでした。お祭りは八幡宮が主催し、地域の心をまとめる役割をして、地方の田舎町でも写真に示すような熱気を生み出しています。

写真:八幡のぼりの一風景(渋川祭りの紹介記事より転載)

「神社が存在する意味とは何か」と、またまたチャットに質問しました。

神社は、日本固有の民俗信仰に基づき、神々をまつるために建てられた建物や施設の総称です。神道は多神教で有り、自然信仰となっていて、八百万の神という多くの神々がそれぞれに神社の祭神として祀られています。神社は、日々の感謝を神様に伝えに行くことが本来の目的であり、日本人が自然と共存する生活様式に根ざしたものです。神社には、産土神、天神地祇、皇室、氏族の祖神、偉人、国家に功労のあった人などの霊が神として祀られています。神社は、日本の文化や歴史に深く根付いており、日本人にとっては、神社は神々との交流の場であり、日々の生活に密着した存在であると言えます。

上記のような回答があり、使用した文献も明示されていて、簡潔に要約をしていると感心しました。神道に関してはニュースレターがスタートした初期の3号(DeisNo.3、2019年6月号)に要約だけ書いて、詳細はホームページを参照して下さいと書きました。 題名は「日本の伝統と神道」です。HP(*3)を覗いていただければ有難いです。

「日本の伝統と神道」の記事のなかには、湯島天満宮禰宜の小野氏(東方第33号)が第九回神儒仏合同講演会で、古事記のこころを、「今を生きる」と題して講演され内容が記録されています。一部を引用しますと、次のように述べています。

「今を生きる」ということで、一番大切なことは「自分とは何か」という命題だと思います。神道では、わたしたちは天地(あめつち)の御霊を受けた存在、もともとはきれいな存在、そのきれいな御霊に戻ることが出来るということが祓(はらえ)の根本にあるものです。神道とは、言語化できない世界、初めから有る天地一貫の「いのち」を儀礼を通して今日まで守り伝えてきたものです。ですから、本当は言葉で説明するのでなく、祓えには始まり、祓えに終わるのが正しいのです。

祓えの眼目は、「わたしたちの本性は神様だよ」ということです。この場合の神様は唯一絶対の神である「ゴット」とは全く異なります。日本の神様は私たちと血の続いている先祖です。ここをしっかり押さえることが大事です。私たちの中には天地(あめつち)の始めからある「いのち」が宿っているのです。

私たちの先祖は、大宇宙本源の「いのち」が、自分自身の身体の中に流れていることが分かっていたのです。今、私たちは、この自分の中に流れている「いのち」が見えていないのです。自我の奥に実在している「いのち」を感得できれば、物の背後にある「いのち」が明瞭に分かります。

神道というのは、「中今」の信仰です。永遠の中今、始めがないのですから無限の過去ですね。そして無限の未来に向かってのここが接点なのです。それを神道では、「中今」。永遠の中の今というのです。私たちひとりひとりの中には、天地始めからの「いのち」が宿っているのです。しかし、あまりにも身近なために私たち自身が気づかない。そして私たちは、誤って自我の心を本心と誤認しているのです。大祓詞は利己的な自分を捨て去って、先祖の天つ神の御心と一つになる祝詞(のりと)です。

以前、この言葉を聞いてなるほどと感じていましたが、注目するところは、重複しますが、次の箇所です。

今を生きる」ということで、一番大切なことは「自分とは何か」という命題だと思います。・・・神道とは、言語化出来ない世界、始めから有る天地一貫の「いのち」を儀礼を通して今日まで守り伝えてきたものです。

「今、私たちは、この自分の中に流れている「いのち」が見えていないのです。自我の奥に実在している「いのち」を感得できれば、物の背後「にある「いのち」が明瞭に分かります。」

と言われている箇所です。日々の生活の中で、他人の意見で心を乱したり、些細な出来事に怒ったり、悲しだり、損したとか、得したとか、自我満載で生きています。しかし、大きな出来事に遭遇したときに、フト、大きな力に生かされていると気づくことがあると思います。この「いのち」は宇宙の根源からつながる「いのち」を生きていると感得することができると、心の安らぎがもたらされると思います。

今回の資料のまとめを通して、仏教の教えの根っこのところで通じているところがあると思ったことです。仏教では、全ての物は常に変化し留まることはない「諸行無常」であり、あらゆる物は固定した実体がない「諸法無我」で、生きるとは苦である「一切皆苦」との基本的な教えがあります。神道はこのような具体的教えが説かれていないが、宇宙の根源に、全てを生かし、生育するエネルギーを感じ、それを神と呼び、畏敬の念を抱いています。このことは、我々の身体は、宇宙が生み出し、絶えず変化し、流動しているその力に生かされているとする仏教の教えにも通じると感じます。臨済宗の元花園大学学長の盛永宗興禅師が、若者にした講演録(*4)があり、そこで以下のように述べています。

宗教とは、自分の中にある深い「いのち」の働きに対する、おおきな自覚のことです。・・・それは、千差万別に分かれて働き出す精神活動の根源で輝いているもの、従って「いのち」そのもとというべきものを指している。無限の過去より、一度も中断したことのない永遠の「いのち」。そういう「いのち」への目覚めと、その発揮。「いのち」が生き生きと発揚していく、そのための修行を「禅の修行」といっているのです。
 ですから、ここで「坐禅」とうのは、脚をへし曲げて、痛い思いをして坐るというような、外的・形式的なことではなく、もっと本質的なものを指しています。あらゆる人々に内在するかけがいのない「いのち」、この「いのち」に対する深い自覚に到達するための一つプロセスを、ここでは「坐禅」と称しているのです。
 従って、これは禅宗に限るものでなく、いろいろな国々のいろいろな宗教の中にも同じものがあります。

盛永禅師の教えは分かりやすく拝聴した学生は幸せですが、どこまで心に響いているかです。今、この原稿を書いている私も、この歳になってしみじみと響いてきました。
仏教の学びとしては、東方学院の講座にあった「坐禅の実習と「正法眼蔵」の提唱」を長年(7年)受講して、坐禅をして、その後に正法眼蔵の提唱を拝聴しています。そこでの学びで、私たちは「身心一如」の存在であり、自然と一体であるが、「個」として生きていることを体感したと思っています。仏教の根本に流れている本質は、神道のいう宇宙の根源にある「いのち」を、坐禅の修行により得心することであると思います。

今回、始めてチャットGPTを使用してみました。なかなか便利なものだと思います。

*1,ニュースレター.No42、2022.9月号、「誰もが心の寄り所を求めている」}
*2,文部科学省検定、詳細日本史(山川出版社、2012)
*3,URL「人生悠然」https://www.gotokazu.com
*4、盛永宗興著「真実の自己を見いだすために、お前は誰か、若き人々へ」(禅文化研究所、2,005)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

コメントを残す

*