生きるとは何か - No.24-4

宇宙に繋がる命

2024・4・1発行

苦しみは成長の足がかり

古い話(17,8年前)ですが、坐禅会に参加していた龍源寺の北軽井沢にある研修施設で坐禅研修があり、昼の研修(坐禅と作務)が終了して、夕食後木立に囲まれた屋外で夜の静けさに浸っていました。そこに、今回初めて参加した中年の男性が近づいてきて、話しかけてきました。彼は営業マンで、お客さんから厳しい言葉をかけられると、心にその言葉が刺さって何時までも悩むことがあるとのこと。また時には、無理を言う相手に怒りを覚えることもあるが、それを我慢すると、心には苦しみが生まれ気持ちが落ち込むとの話でした。どのように対応したらよいのか話しかけられたことがありました。

その際に、私が話したのは、相手の言葉を心に留めてしまうと、何時までも繰り返し思い起こされて、自分を責める棘となります。先方は、その場のはずみで発言して、既に忘れているかも知れません。あなたがその言葉を聞かなかったとしたら今の苦しみはないのです。相手の言葉の内容を振り返って、参考になるならば受け入れ、そうでなければ早く忘れることです。考え過ぎずに、心に留めなければ、苦しみが起こりようもありません。過ぎ去ったことを、思い起こすのは止めましょうと話しました。彼は、何か気づかれたようで感謝されました。

私達は他人から何気ない言葉でも、自尊心(自我、私がという思い)が傷つけられたと感じ、不愉快な気持ちが沸き起こることがあります。何時までも覚えていると、反感や憎しみの感情が繰り返し反復することになり、嫌な思いが補強され、益々心を悩ませます。考えてみると、相手が投げかけた言葉の裏には、それ以前の出来事が潜んでいて、その思いが瞬時に再生され、きつい発言となった可能性があります。営業マンの話に戻って考えてみると、客先の要求を満たしていない提案がなされ、対応の仕方によっては不満が生まれ、余分な一言を投げかけたかも知れません。何事にも原因があり、その結果が思いに反すると落胆や苦しみが生じます。自分のこととして振り返ってみても、人には忘れなさいと言っても、簡単に忘れられないのが現実です。ではどうするかが問題です。私なりの解決策です。

・原因を探り、自分の方に誤りがあれば素直に反省し、次の行動に反映することです。マイナスの経験をプラスに転換できます。それにより心は豊かになります。

・人間は誰でも自尊心があり、自分を擁護する厄介な感情が瞬時に生み出されます。自分という思いがある限りその感情を消し去ることはできません。あらゆるものは無常であり、「私」という実体は移ろいゆく存在であると、あるがままに見ることができると「私」という思いも弱まります。悩むのはその「私」ですから苦しみは消えていきます。

生きている限り、大なり小なり悩み苦しみを経験します。それを乗り越えることで、心は成長して、他人の痛みを理解できる深みのある人に成長できると思います。「失敗は成功のもと」とよく言われていますが、失敗の中にこそ、今まで気づかなかった新たなことが潜んでいるのです。とことん悩めば、必ず気づく時がくると思っています。生きているとは出会いの連続で、善いことにも悪いことにも遭遇します。そこでの経験が今の私を形作っています。

身体が実体であるとの認識は錯覚

宇宙が183億年前のビックバンから始まったと現代科学では言われています。地球は約46億年前に、地球上の生命は約38億年前に生まれ、我々の祖先であるホモ・サピエンスは約20万年前に出現したとのことです。宇宙の歴史から見れば最近の出来事です。更に、私達現代人は僅か10万年前にアフリカで誕生し、約5万年前に各地に拡散移動し、日本には約4万年前頃に到達していたとされています。
今ここに生きているとは、途切れることのない過去に繋がっている証拠です。壮大なことになりますが、辿ればその先は宇宙創成にまで行き着くことになります。ミクロの世界に踏み込めば、私達は原子分子の集合体で、有機的な結合で身体の各部位が作られています。最新の量子科学では最小単位の原子も陽子と電子に、更に、陽子も素粒子で構成されて、粒子と波動の性質を持っています。この世に存在するあらゆる物を素粒子レベルで観察すると、日常感覚で捉える物質は消失してしまいます。

人間を中心にマクロ(極大の世界)とミクロ(極小の世界)に展開した図1を示します。古代ではウロボロスの蛇の図としてマクロ世界(蛇の口)がミクロな世界(尻尾)を飲み込んでいる図が知られています。

図1.人間を中心にマクロとミクロに展開

詳しくは自著「生きるとはーもう一人の自分探し」(銀の鈴社、2023)に宇宙の中で、「人間はどのような位置にあるか」として述べましたので参考してください。

人間は宇宙が創出した原子の結合により有機分子を形成し、複雑な有機高分子が高次機能的に結合し個々の身体を生み出したものです。結びの力(化学結合力)で結びつき固有の姿を持った動植物と同一の生命原理を持った存在です。この身体を私達は疑うこともなく実体と認識しています。しかし、この実体は絶え間なく変化して同じ状態は存在しません。でもそこに変わらない私がいると認識して生活しています。

誰もが唯一の存在

この世に生まれる経緯を考えると、時代や国や地域などを選択する余地もなく、父母の出会いの縁によって誕生しています。資質は先祖からの染色体(遺伝子(DNA)を含む)により引き継がれています。しかし、引き継がれたのは父母のものでなく、祖父母の染色体が混ざり合ってできた新しい染色体を持つ卵子と精子ができて、それがまた組み合わされて誕生した私です。それまで存在したものにない唯一無二の新しい遺伝子を持っているのです。自然は絶えず新たな組み合わせを生み出し、変化する環境に適用できるようになっています。広い世界の中で唯一無二の存在である私達であると認識できれば、自分が愛おしいように他人も同じく愛おしいのです。しかし、この無二の存在である人達が、主義主張や権力欲、金銭欲の欲望に駆られ、殺し合いの戦争が止むことのない世界です。人間が本能的に持っている感情である怒り、憎しみ、権力欲、金銭欲、高慢心などに気づき、コントロールする能力を獲得しない限り、世の中から争いはなくなることはないでしょう。

身につけるべき学問とは

最近、内村鑑三の書いた「代表的日本人」(鈴木範久訳、岩波文庫、2023,第49版)を読む機会があり、江戸時代の高徳の儒学者である中江藤樹を知りました。内村鑑三が西洋人に日本の特質を理解して貰うために、代表的な日本人を紹介した一人に中江藤樹をあげています。片田舎の学者が、後半生は世に知られるが、惜しまれて40歳で亡くなります。参考になる言葉を抜粋し、括弧で注を付け紹介。

道(真理)と法(人為的決まり)は別である。・・・道は永遠の初めから生じたものである。徳の名に先立って、道は知られていた。人間の出現する前に、宇宙は道をもっていた。人が消滅し、天地がたとえ無に帰した後でも、それは残りつづける。しかし法は、時代の必要にかなうように作られたものである

・学者は、まず、慢心を捨て、謙徳をもとめないならば、どんなに学問才能があろうとも、いまだ俗衆の腐肉を脱した地位にあるとはいえない。慢心は損を招き、謙譲は天の法である。謙譲は虚である。心が虚であるならば、善悪の判断は自然に生じる。

この虚は無心あるいは空と言い替えることができると思います。藤樹はなによりもまず徳を高めることを重視しています。この心が虚になることが最高として、利己心から逃れられない人々をあわれみ、次のような言葉があります。

獄の外に獄が有り、世界を入れるほど広い。
 その四方の壁は、名誉、利益、高慢、欲望への執着である。
 悲しいことは、実に多くに人々が、
そのなかにつながれ、いつまでも嘆いている。

現在でも多くの人がこの獄に繋がれています。最近、インタネットで次の例を見ました。

・東京大は13日、秘書や部下へのパワーハラスメント行為があったとして、いずれも50歳代の教授と課長級の事務職員を戒告の懲戒処分にしたと発表した。処分は4日付。発表によると、教授は秘書の職員に対し、他の職員らがいる前で強い口調で叱責(しっせき)。事務職員は打ち合わせの席で部下に対し、暴言や叱責、どう喝などの行為を行ったという

・職員へのパワハラなどを理由に北海道大の学長を解任されたのは不当だとして、名和豊春・前学長(69)が国と同大に解任取り消しや約1460万円の損害賠償を求めた訴訟で、札幌地裁は13日、請求を棄却する判決を言い渡した。

日本の最高学府での出来事です。江戸時代の藤樹の指摘は令和の時代でもそのまま当てはまります。知識を幾ら増やしても人の人格(徳)は向上しません。私も在職していた当時、似たような光景をしばしば見ています。自分の心を管理できていないと、感情のなすがままに暴言を発します。他人の発する暴言やきつい言葉は人々の心をえぐり、自殺にまで追いやる事件がしばしば起こっています。何とも悲しい現実です。

人生の幸せは何かと問うと、戦乱の渦中にいる人にとっては、戦火が止み、家族が穏やかに暮らせることが最高の幸せと答えるでしょう。平和な世界にいても、この世に生を受けた唯一無二のあなたは、宇宙の長い歴史の最先端に、今いるのです。稀有な出来事なのです。人間としてやるべきことは、争いのない世の中を作ることです。そのために、怒りや憎しみや、高慢な心などを抑制する術を獲得する必要があります。

あらゆるものはつながっている

怒りや憎しみの感情が起こったとき、その心に気づくことです。今、「私の心に怒りの感情が湧いた」と気づくだけで、この一瞬の間合いが冷静さを生み出し、怒りの行動にブレーキが掛かります。

日常の生活においての思考を宇宙的なマクロの世界や、身体のミクロの世界に、転じていくと無限大の世界が広がってきます。そこには「私」という閉じられた個体はありません。あらゆることに繋がりを持った網の目のような世界の広がりがみえてきます。

仏教の教えに「縁起」があります。すべてのものは、直接的な原因(因)と、非常にたくさんの間接的な原因(縁)によってある結果(果)が生ずるという因果法則があります。先の事例を考えてみると、東大の教授が、部下の仕事が自分の指示に沿っていないことに腹を立て、皆の前で強く叱責したことで、パワハラしたと処分されたのは因果法則に沿ったできごとです。東大の教授ですから専門的知識は一流だったでしょうが、専門以外の教養的な学びはなく、心を成長させる機会を持たなかった結果でしょう。藤樹の言葉があります。

“学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるものではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識が秀でていても、徳をかくなら学者ではない。学識があるだけではただに人である。無学の人でも徳を具えた人は、学識はないが学者である。

内村鑑三がこの本を書いたのは、日清戦争中で、「徳と感化に関しては、お手軽に教えられている現代の教育制度によるかぎり、私どものなかにはびこる俗悪を抑えることがかのうかどうか、疑問であります」と記しています。令和の現在は、知識重視の戦後教育制度です。宗教は排除され、小学校で道徳教育はあるようですが、心許ないかぎりです。最近の国会議論のゴタゴタを見ると、学識はあるのでしょうが国会議員に徳は感じられません。

多くの人は「私」という枠の中に閉じこもり、これが真実だとの思いで生活し、名誉、利益、高慢、欲望へ執着しています。この枠を外して、人間は本来、宇宙的な存在であり、宇宙が生み出してくれた命であると観ることができれば、心は広く解き放たれます。仏教の教えの中に答えはあります。

素晴らしい説法

私が60歳退職後に、師事した龍源寺住職の松原哲明師の逸話です。哲明師が若かりしときに、初めて本格的に、禅修行した三島市郊外の臨済宗の龍沢僧堂で、中川宗淵老師のお供で、裏山を散策したときのことです。

裏山を抜ける土手をゆっくりとのぼっていると、ふきのとうがまぶしそうに顔をのぞかせています。すると、宗淵老師、そのふきのとうに向かい、合掌しているではありませんか。・・・不思議な人だと思いました。なんでもない、とるに足らぬ小さなふきのとうに手を合わせるなんて、常識でははかれない人だなと思ったものでした。・・・そんな私の疑問に、老師は次のように答えました。
 人間の一生は、たった一回しかないでしょう? そして、この一回の生命は、何百万年という過去の、原始初代の生命を、現在につなげとめているでしょう。よく考えれば、もしかしたら生まれなかった生命でしょう。それが、ここにこうやって、たったの一度、生まれることができたのです。
あの、ふきのとうにしても、私たちと何ら変わりません。・・・この私も、このふきのとうも、たった一回の生命です。(自著「生きるとは何か」(サンガ、2019)より抜粋)

私たちは、宇宙に繋がる生命なのです。些細なことで激怒し、パワハラで処分された学識先生は、一生を台無しにしています。心を育てる学びをとうして、豊かな人生を送りたいものです。

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