生きるとは何か - No.20-11

仏教の本質を知る

2020年11月1日発行
固定観念・先入観が壁になる

日本では昔から家の中には仏様と神様は同居していました。子供の頃、私の家でも仏壇には先祖代々の位牌、お祖母さんとお祖父さんの位牌と小さな仏像が置かれていました。家の奥には神棚があり、神社から頂いたお札が収められていました。お寺は葬式の時だけ行くところで薄暗い本堂の一番奥に仏像が収められていたことくらいしか記憶にありませんでした。

成人して社会人となり仕事中心の生活は、仏教の話が出ても、子供のころから連れられて行った葬式の時のお寺を思いだすだけで、それ以上のことは浮かんで来ませんでした。お寺とは葬式だけをするところと思っていましたから、話を聞いても、興味が湧かないし、折角の話も素通りするだけでした。10月初めにやっと上梓できた小冊子「日本を救ったブッダの言葉」を昔からの同僚や関係深い人たちに差し上げていました。その中の一人から次のような返事がありました。

この度は貴重な冊子をお送りいただきありがとうございました。早速、一読させていただきました。私も家の墓を継がなければならない羽目となってお寺に行く機会も多いのですが、どうもこれまでの葬式仏教のイメージが自分の中で払拭できず仏教について深く理解しようという気になれませんでした。この本では大変わかりやすいキーワード(主題)が深く印象に残りました。少し先へ進めるような気がいたしました。

この方は社会人となり定年退職まで企業で熱心に研究開発をされた研究者です。
わかりやすいキーワードとは仏教の真髄である「思いやりの心」「慈悲のこころ」です。仏教を理解しようとするきっかけになったと思います。
しかし、興味が湧いて仏教書を覗いてみようとすると、目の前には沢山の仏教書があり、どれを選べばよいか迷うところです。選択を誤るとまわり道になることがあります。勉強すると言っても結構時間が掛かります。

私の経験では、縁あって40歳頃に仏教は生きている人に向かって真理が説かれているのだと知りました。しかし勉強を始めると内容は多岐にわたり、多くの宗派や教義があり的を絞ることができず、雑多な知識として記憶されました。「無常」の理解が深まり、これが本質的な教えの基礎にあると納得して山門にたどり着いたときには60歳半ばを過ぎていました。とにかく学びを始めないと掴むことは難しく、人にもよりますが気づくまでには時間が掛かりました。

ダライ・ラマ14 世のアドバイス
日本人の仏教理解についてダライ・ラマ14世が述べている文章に出会いました。
ダライ・ラマ14世著「傷ついた日本人へ」(新潮新書、2012)から要約して紹介します。

日本は仏教徒の非常に多い「仏教国」と言っても過言ではありません。中には仏教徒だという自覚のない方も多くいるでしょうが、先祖や家族をたどると、仏教の信仰を受け継いでいる方が大変多い。… でもその割には、仏教が何であるか、どんな教えかを知らない人が多い。先祖代々が仏教徒だから、家がもともと檀家だったから、そのような理由だけで仏教徒でいる人が多いのです。せっかく仏教と縁があったのに、とてももったいないことです。
仏教がどのような教えかを知ることで、信仰すべきかどうか、初めて自分で考えることができます。その結果、仏教を選んだ人こそ真の仏教徒といえるでしょう。
仏教の教えがどうして自分に必要なのか。信仰によってどのような人生を歩みたいのか。そして何を実現したいのか。宗教を学ぶことは、自分の人生を見定めることなのです。                         (17頁)

・仏教はたしかに宗教の一つですが、実は他の宗教と比べて「哲学」や「科学」の要素がとても強いのです。そのため、仏教の教義を学ぶことは哲学や科学を学ぶのと同じようなものだといえますし、哲学や科学として捉えれば各々の宗教教義を横断して知ることができるのです。
(24
頁)

・仏教は「神」の存在を認めていないのです。いわゆる「無神教」という類です。
仏教の開祖として尊敬を集めている釈尊(釈迦、ゴータマ・シッダールタ)も、決して神様ではありません。また、「仏」は悟りの境地に至った人のことを指す言葉ですから、誰でもなれる可能性があり、「神」とはまるで違うものです。
「神」がいればそれに従えばいいわけですが、仏教はそういう存在がない。幸せとは何か、真実とはなにか、その答えは経典を学んだり修行したりしながら、自分で見つけなくてはならないのです。仏教がきわめて哲学的であるといったのはこのためなのです。
(27
頁)

私などは多くの日本人と同じように、中年までは仏教に対する見方は、伝統的な環境のなかで過ごしていたので、漠然と神と仏が混在して、深く突き詰めることを放棄していたと言えます。仏教は他の宗教と異なり「神」は存在していないことを知って科学的な視点から仏教を学ぶことで興味が湧いてきました。ここでは日本の神道の神様は置いておくとして、ブッダの教えである仏教の本質に迫りたいと思います。

科学的視点から仏教の本質を知る

仏教は釈尊(ブッダを尊称して釈尊)が見出した人間を含め宇宙や自然の真理についての教えです。釈尊の教えである仏教はキリスト教やイスラム教などの宗教と異なり万能の神がいるとは説いていません。釈尊は真理を発見した歴史上に実在した人物です。世界の真実の姿は、存在するあらゆるものは常に変化し留まることのない無常の相であり、相互に関連し、縁によって生起していると説いています。科学的な視点から見ると、すべてのものは原子、分子で構成され絶えず揺らめき動き、変化している存在であると知ることができます。人間の身体も心も揺らめき、一瞬一瞬に変化している現象なのです。現代の科学的知見を踏まえて考察します。

〈いのち〉の流れと身体

地球上に生物が生まれ、多様な形態をもつた個体が存在しています。その中の一つとして私がいます。しかし、私を生みだしたおおもとは連綿と続いている〈いのち〉であるということが発生学では今日の常識になっているとのこと。今を生きている個体としての私に流れている<いのち>の関連はどうなのか。

花園大学の盛永老師は発生生物学者の岡田節人博士にお願いして科学的立場から生命論を論じてもらった講演を聞いて、その内容は仏教的な感覚と非常に近いもので、嬉しい驚きを感じたと述べています。そこで得た知見を、盛永宗興著「真実の自己を見出すために お前は誰か」(禅文化研究所 2005)に書いています。内容の一部を要約して示します。

 生物と〈いのち〉は別もの 

・講演で岡田博士は、自分の専門である生物と〈いのち〉とは別ものであるといい、〈いのち〉というのは、すべてのものにいきわたっている普遍的なものであると定義した。次に、自分の研究している「生物」というのは、いろいろな形、名称、能力を持った、多様性のある存在のことであり、「生物」と〈いのち〉の二つの関わりについて話した。

・DNAの中には、受精卵が細胞分裂を繰り返して、どのような生物として発達していくか、その設計図、すなわち遺伝子情報が織り込まれている。それは、生物が生物

として成長するための基本になる情報の塊であって、これなしには生物は成長のしようがない。

DNAは生物の最も基本的な内在情報であって、細胞が一個しかない単細胞生物から、人間のように数兆規模の細胞を持つ多細胞生物に至るまで、例外なく、共通に持っている物質です。… すなわち、これは、すべてのものにいきわたっている

<いのち>を顕在化させ、「生物」となって多様化する鍵をなすものである。DNAというものが、極めて多様な生物というもののすべてに共通して含まれているということ、この意味で、普遍的な<いのち>と、多様性を持った種々雑多な存在が、実は一つであるといえる。… DNAがどこからどのように発生したかは、実証されていないが、〈いのち〉というものはただ一つ、一回しか生まれたことがないという認識は、今日、発生学のほうでは常識になってきています。
(69,70頁)

私たちは、あくまで生きていることがそのまま自分の個人的な<いのち>であり、普遍的な生命とは思っていません。それぞれが個別の存在した生命であり、死すれば無くなる儚いものとして感じています。それは岡田氏の言う生物としての個体の話です。

もう一人、生命科学者である中村桂子氏は著書「生命誌の世界」(NHKライブラリ-、1999)で次のように述べています。

・私たち人間はヒトという部分――他の生きものたちと共通の40億年近い生命の歴史をもつ部分を背負っているのだという認識が重要です。… 実際の研究は、DNAを中心にした研究であり、生命科学とつながったものですが、視点が違います。実は生命誌という考えをもつようになってから私の関心は、生きものというより「生きていること」にあるのだと思うようになりました。生物という物ではないし、また生命という抽象概念でもなく、生きているという現象です。(28頁)

・日常私たちは自分にこだわりすぎて、広い視野の欠けることがよくあります。DNA(遺伝子)に注目して、40億年近い昔から続いているのが今私の中にあり、地球上の他の生きものたちとそれを共有していることになることを意識し、長い時間、広い空間の中に自分を置いて、おおらかになるのはよいことです。(90頁)

日常では「いのち」とは何かなどと考えなくても生活に問題はないし、疑問がなければそれ以上の進展はありません。少し興味が湧いたら、科学や哲学的視点を通して仏教を学んでみることも面白いものです。

禅の老師が語る悟り

前掲の盛永老師の若者に語りかけた本「お前は誰か」から一言いただくと。

・仏とは、もともとインドの言葉である「Buddha」を音訳して「仏陀」としたことに由来するもので、「悟れる人」の意味があります。では、何を悟ったかといえば、この限られた肉体に縛られ、限られた条件の中に閉じこめられているように思っていた自分が、実際には、限りなく自由な<いのち>の現われであった。この事実を自覚すること、それが「悟り」なのです。この事実を悟った人を「仏」といったのです。              (76頁)

私たちは、生まれてこのかた多くの経験をして、生活上の理念や価値観が形成されています。それが固定観念、先入観として、ぎっしりと頭に詰め込まれているのです。それらに縛られて、不自由な生活をしていることに気づいていないのです。他人から批判を受けたり、誉められたりすると、私は会社や大学でこのような素晴らしい業績をあげた。私は人に批判されるようなことは決してないと、あるいは自分はだめな人間だ、と自分で価値を決めて、自らを拘束しているのです。仏教では世間的価値観や固定観念、先入観を捨てて、心の自由を獲得するために修行をしています

人生は今ここ

生きているとは、日常生活の一瞬一瞬を生きているのであって、長い時間の中にあるのではないと言えます。過去の出来事は記憶の中にあり、将来のことは空想する観念の中にあります。人生はこの一瞬一瞬のつみ重ねです。
しかし、頭の中は、昨日は予定していたことが何もできなかった。今日中にしないと間に合わないがやる気が起きない困ったことだ。明日は提出の期限だがどうしようか、などとグズグズして悩んでいます。この原因はどこにあるかといえば、心がやろうと意識を働かせないと体は動きません。考えてみると、どんな小さな行動でも心の命令で行われていることを私たちは気づいていないのです。自分の心を自分でコントロールできていないから苦しむのであって、どのような仕組みで心がつくられるか知らないから対応ができないのです。

スマナサーラ長老の著書「上座仏教 悟りながら生きる」(サンガ、1999)の中で次のように説いています。要約して示します。

・人間はからだを動かしたり行動を促したりするとき、ます心が指令を発する。この心を一般的に潜在意識と呼んでいるが、人はこの潜在意識によって行動し、考え、判断しているのである。… 心がこの潜在意識だけで動かされているかぎり、人には一切の自由がなく、潜在意識の奴隷と化してしまっているのである。あなたの悩み苦しんでいる心も、この潜在意識によって引き起こされた妄想にすぎないのである。           (12頁)

普段の行動が潜在意識にコントロールされているなどとは恐ろしいことです。自分でコントロールできないのですから、ではどうすればよいか。長老はそれは「今」の自分の心に気づいていないために起こる現象であると言っています。

・自分を苦しめているものの正体である妄想を、なぜ人間は自分で気づくこともコントロールすることもできないのだろう。それは、人間はものを見たり聞いたりした瞬間に、潜在意識による習慣によって独自の判断をしてしまうからである。しかも、一度妄想によってつくられてしまった心はいつまでもつづいてしまう、という習性があるから厄介だ。(22頁)

例えば、花を見たとき、この赤い花は美しいが、あの花は見栄えがしないなど直ぐに良し悪しを判断してしまう。また人の話を聞いていても、くだらないとか、素晴らしいとか評価して、人格まで査定することすらある。この判断も潜在意識に蓄積されて、固定観念や先入観がつくり上げているのです。有意義な情報に接しても、自分なりの考えや知識であるこの固定観念・先入観が邪魔をして素直に受け入れられないのです。
仏教の話に対してもある程度の基礎知識がないと、言っていることが理解できないため、なんだかよく分からないで終わってしまいます。また、大切な情報が耳元まで届いていても、受信するアンテナを立ててないと聞くことはできません。早めにアンテナ工事が必要なのです。

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