生きるとは何か - No.23-3

無常を知ることの意味

2023年3月1日発行

2月も半ばを過ぎると寒さは厳しいですが、春の訪れを感じます。庭先にある小さな梅の木の白梅も満開となりました。季節の移ろいは確実に進んでいます。毎年くり返し見ている光景ですが、眺めている私の意識はなにを考えるでもなく、種々なる思いが浮かんだリ消えたりしています。自然の移ろいは一瞬たりとも留まることなく変化し続けています。

私という身体もの自然であり、宇宙の長い歴史に中で生み出された生命です。産みだされた物は、その瞬間から構成している細胞は生成と分解をくり返し成長し、老いて、最後は死を迎えます。

最近のニュースで、上野動物園で6年前に150グラムで生まれたパンダが、大きく成長して中国に返還される時となり、多くの人が別れを惜しんで涙を流す人もいました。愛くるしさを持ったパンダの仕草や行動は人々に癒しを与え、沢山の人たちの心を慰め勇気づけてくれたと思います。日々成長し行く姿は何回見ても飽きることなく強い愛着心(執着)が生まれたことでしょう。

心が生まれる仕組み

花を愛でたり、パンダに心奪われるのはなぜなのか考えてみたいと思います。古くは身体(物)と心は切り離された別な「実体」とみなす二元論が論じられていました。しかし、最新の科学的知見では、心の働きは脳における物質的なメカニズムに全面的に依存していることが明らかにされています。(浅野孝雄著「心の発見」産業図書、2014年)

人間は身体にある5つの感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身)で外界の変化を取り込んでそれを意識して知ることができます。これらの感覚器官に与えられた刺激は、いろいろな種類のエネルギー(音の振動、光の強さや波長、味覚の化学物質、熱や圧力など)を、電気的エネルギ-に変換し、その強さをインパルスの頻度として伝達する機能を持っています。しかし、その刺激の内容は、まだ感情や先入観の影響を受けていない変化そのものです。脳内に流入したこれら電気信号は、脳内を駆け巡るのです。仏教では人間を五つの塊(五蘊)で構成されているとして、それは物体(色)・感覚(受)・想起(想)・意志(行)・認識(識)で成り立っていると説いています。 

脳がどのようにして意識を作るかは、2022年8月の「生きるとは何か」(128)で浅野氏の資料(NHK「こころの時代」の資料(2017年))をベースにして報告をしています。ここでは少し補足し、脳は留まることのない無常の働きをしているという視点で検討したい。

海馬は脳内器官で記憶や空間学習能力に関わるとのことです。
(図は海馬の位置を知るためにインターネットで検索)

・脳内に入った電気信号は、最初は辺縁系の海馬に入り、時間の順番にメモリーの一つ一つが働き、一番新しいアトラクター(ある力学系がそこに向かって時間展開する集合のこと)が作られそれが現在なのです。そこで、時間と空間という環境と自分の状況と歴史を踏まえて作られた知覚情報が、時間と場所の中に定位される。ここで知覚が形(形態:ゲシュタルト)を持つわけです。そのゲシュタルトを持った知覚が、楕円のループに従って、脳全体をグルグル回るとのこと。この脳の表面を回るとき、すべての脳の各所に分子でその信号を伝達し、同時にその各所の分散した機能で、また新たな処理を受けて、その処理を受けた形というのが、またその情報に加えられる。加えられたものが海馬に戻ってくるのです。完全な循環サイクルです。そのサイクルが、一秒間に大体十回から十二回起こります。その循環によって「色、受、想、行、識」のそれぞれの蘊が、ここで海馬において一つにまとめられ、その回転が何回か続いた時に、初めて脳全体が一つのパターンに、パっとアトラクターが出来るわけです。レーザーが光を出すように、一つの考えが出来るのです。

脳内に電気信号として入った無垢の情報は、脳内の各所を巡り、何回も循環して、既に蓄積されているデータと照合され内容が付加され意味を持つように加工されて、意味の塊(アトラクター)としてパッと生まれるとのことです。 

・この大域的アトラクターが形成されるまでに約0.5秒かかるのですが、この段階はまだ無意識の働きです。どうして意識になるかですが、大域的アトラクターは、0.5秒掛かって成立するごとに、今度はもっと細かく変化していく、これをアトラクターの変異とも遷移ともいい、遷移シフトします。これはどうしてかというと、もっと高速に知覚サイクルは回転しているのです。そしてその回転はやむことがない。次々とこの大域的アトラクターを更新して、大体一秒間に十回くらいする。

・大域的アトラクターの一つが出来上がるまでは、まだ意識に上がらないけれども、次のシフトするつなぎ目、その時間に大域的アトラクターの分節が出来て、次のシフトする時に、それが意識と言われるのです。
更に続く解説では
0.5秒かけて出来上がった大域的アトラクターは、その0.1秒ごとに新しい情報を取り入れながら次々と変化していきます。その変わり目では脳全体のネットワークが、一瞬静まったような瞬間が現れます。実はこの静まった瞬間にこそ、人間の意識が生まれると考えらます。つまり心とは、渦巻のように生まれた無意識と、その後の0.1秒ごとに感知される意識とで成り立っているというのです。
著者の浅野氏の説明によると、意識自体が、この大域的アトラクターを作るのではない。それはあくまで無意識のうちにどんどんと自分の脳が作り出すものであって、意識というのはその上にあって、その先をコントロールしているということです。

上記のような脳の働きを知ると、途切れることなく入る外界の刺激を脳は瞬時も止むことなく活動し、過去の経験や知識を蓄積したデータを基に、無意識の中で自発的に作成しているとのこと。この花は美しく甘い香りがするとか、パンダはいつ見ても可愛らしく大好きだという感情も脳が意識に上がる0.5秒前に作り出していることになります。これらのことから「心は絶えず変化し、生成・消滅を繰り返す無常の流れである」と理解できると思います。

無常を知ることの意味は?

私たちの眼の前に見る多くの現象や事物は、詳細に観察すると瞬間瞬間に変化しているはずですが、それを知ることができる分解能はありません。日常の出来事はゆっくりと変わり、昨日咲いていた花が散ったとその変化に気づく程度で、そこに無常を感じることはまずありません。

60歳半ばになっても、私は無常を単なる言葉や概念としか理解していませんでした。
転機となったのは2007年1月に旅行社の募集したインド仏跡巡礼の旅でした。当時、は道路事情も悪く、次の目的地へのバス移動に4、5時間もかかるので、僧侶の方も同乗し、バスの中で仏教の説法をしてくれていました。その時の話はブッダの説いた教えの基本である「四聖諦」という四つの真理の解説したものでした。

真理の第一は「一切は苦である」という苦の認識(苦諦)、第二は「苦の原因は欲望(渇愛)にある」という真理(集諦)(じったい)、第三は「渇愛を滅すれば苦は消滅する」という法則の認識(滅諦)、第四は「その境地に至る実践方法(八正道)」です。

これら真理を分かり易く説明してくれていました。それまでも仏教書は乱読して雑多な知識が詰め込まれていましたが、この時の説法は初めて聞いたような新鮮さを感じたことを覚えています。

長いバス旅の中で、ボーと外の移りゆく景色を眺めていた時、無常とは「常なることが無い」というあたり前なことに気づきました。宇宙の自然法則である無常を知ることは仏教理解のスタートラインに立った思いでした。その後、生物学者の福岡伸一氏の「動的平衡;生命はなぜそこに宿るか」(木楽舎、2009年)を読んで「人の体内も分子の流れである」とのことに感動して、科学的視点で仏教を考える意味があると思ったことが輪読会資料を作成する始まりでした。

輪読会で「生きるとは何か」と題して資料作りを2011年2月(その1)から開始して、動的平衡の話は第二回目の3月(その2)でした。その文中に
「仏教が教える基本に「諸行無常」「諸法無我」ということばがありますが、これはあらゆるものは変化して常なるものは無く、私という実体も無いとの教です」
との記述があり、無常を理解していたようです。生物学で見る身体の無常についての例を2,3紹介します。

・生命は行く川のごとく流れの中にあり、私たちが食べ続けなければならない理由は、この流れを止めないためなのだ。この分子の流れが、流れながらも全体として秩序を維持するため、相互に関係性を保っているということだ。
・個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし、ミクロレベルでは、たまたまそこに密度がかたまっている分子がゆるい「淀み」でしかないのである。私たちの身体は分子的な実体としては、数か月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間には環境へと解き放たれていく。つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜ける」という表現も正確でない。なぜなら、そこには分子が「通り抜ける」べき容れ物があったわけでなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も、「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。生命とは動的な平衡状態にあるシステムである。
・生命が「流れ」であり、私たちの身体がその「流れの淀み」であるなら、環境は生命を取り巻いているのではない。生命は環境の一部、あるいは環境そのものである。 

人体の脳の働きと内臓の働きに、留まることのない無常の姿を見てきました。
ブッタは「無常なるものはすべて苦である」であると発見しました。
パンダの愛くるしい姿や美しい花など、自分のそばに留めていたいと執着しても、すべたが変化し離れて行く自然の摂理です。執着すればするほど苦しみは深くなります。
すべては無常の姿であることを得心することで、執着から離れ、苦しみを超えることができるのです。
私たちが眼、耳、鼻、舌、身の五官で取り込んで目の前にある姿は本物であり、実体であると思っています。しかし、その姿は視点を変えてミクロに見ると現象であり、実体がないと理解できます。執着が少し弱まると思いませんか。

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