生きるとは何か - No.21-12

誰にも先祖はいる(2)

2021年12月1日発行

今、ここに居る私は、遠い先祖から命がつながれています。途切れることなく、多くの先祖の遺伝子が混じり合いながら、科学技術の発達した現代の私にも引き継がれていて、私の性格の一面を形成していると考えると、不思議な思いが湧いてきます。

NHK番組のファミリーヒストリーで取り上げられる有名人は、徹底的な調査で10世代くらい前まで遡りルーツを辿っています。そこには多くの先祖の苦労と支えがあって、彼ら彼女らの今があることを見せてくれています。

しかし、私のような庶民では4、5世代前の先祖でも、記録を探すことは難しく、本人が80歳にもなると両親、祖父母も他界して、聞く手掛かりもなくなっています。ただ、言えることは父方と母方とでは、ルーツが大きく異なる両親が結婚したことで、子供の私には新たな遺伝子が加わり多様性が生まれてきました。

因みに、誰でも10世代前で1000人以上の先祖がおり、20世代前では100万人上の親族と繋がっていることになります古い時代まで遡っても、今、生きている私の先祖がいたことは確かです。1500年以上前の古墳時代に思いを飛ばしても、そこにはご先祖様が生きていたのです。

芝山古墳の埴輪列

前回、古墳時代の遺跡がある千葉県芝山町にある芝山古墳と「はにわ博物館」を簡単に紹介しました。特に武人埴輪と呼ばれていた人物埴輪は「伝統的な服装のユダヤ人埴輪である」と田中英道氏が著書「発見!ユダヤ人埴輪の謎を解く」で明言していましたので、この目で確かめに出かけた見学記として報告しました。

今回、ユダヤ人埴輪が発掘された姫塚古墳について、もう少し詳しく入手した資料を辿り紹介します。昭和31年に殿塚・姫塚の発掘調査は行われ、特に、姫塚古墳からは原位置のまま横倒しになっていることが判明した人物や馬形の形象埴輪列が出土しています。

図1は姫塚古墳の測量図で、この右側には殿塚古墳は省略しています。
姫塚は全長58.5m、高さ4.8mで、前方後円墳で二重の周溝がめぐり、築造年代は6世紀後半とされています。出土した形象埴輪列は45体で、原位置で出土したので、埴輪の配列の意味を考える上で重要な発見とのことです。

図1 姫塚古墳の測量図と埴輪列

           左側の黒い▲が埴輪列です。


          図2 古墳上の埴輪列

        図3 3Dで再現した姫塚古墳の配列(図2と番号で対応)

博物館の資料によると、埴輪列は墳丘北側の中段の平坦面に立てられ、前方部西側から馬子と馬による10体の群、豊かな顎髭と太刀を持つ武人7体を含む男性像14体の群、後円部には、髪を結い首飾りをした女(巫女か)を含む女性像9体群、鍬をかつぐ農夫を含む男性像10体の群が続いています。また、列から離れて、女性像の後方に琴を弾く男、列を外から見るようにひざまずく男が置かれています。

この列の様子から、姫塚の埴輪群は葬列の様子を再現したもので、埴輪が外向きに立てられていることから、埋葬者よりも古墳を見る人を意識して並べられていれたと推定されています

   埋葬されているのは誰か

多くの参列者が続く長い葬列を見て私が想像するには、この地方の領主で、生前は良い統治をし、人望があり、惜しまれていたと感じとれます。先頭には、彼が乗っていた馬が引かれ、その後に位のある武人の列と正装した女性達、鍬を持った農夫などが続き、沿道には坐って手をついて見送る人たちがいる厳粛な長い葬列風景が浮かびます。

古墳時代の各地域の支配者は国造(くにのみやつこ)と呼ばれ、現在の芝山町一帯は武社国造(むさのくにのみやつこ)が治めていたと資料には記載されていました。

   田中英道氏の考察

姫塚古墳はユダヤ系の人々の存在を示す貴重な物的な証拠であり、これをもって関東にやってきた人々の姿を確かめることができ、その正体を考えることができると述べています。

埴輪列についての田中氏の解説を以下に紹介します

   埴輪列の特徴

・埴輪列は四群に別れていて、第一群の内訳は、笠をかぶった馬子と鞍を付けた馬四頭。そして、ユダヤ人風の帽子とみずらをつけた武人が五体です。

第二群は男子像が十六体もあり、すべてがユダヤ人的な姿をしています。そこには器財埴輪が一個つけられていました。

 第三群は女子像が七体です。ここからわかることは、明らかに、人々は、夫婦すなわち家族で日本にやってきたということです。

 埴輪の第四群は男子像十体で構成されていました。あごひげを伸ばした武人、つまりユダヤ人風の武人とともに、鍬を持った農夫がいました。

 鍬を持った農夫というところが重要です。これは、ただ単にユダヤ系の人々がやってきたというわけでなく、農耕を行って日本に住み着く意図をもってやってきた、ということを示しているからです。

 十三世紀鎌倉時代の元寇においては、元軍は鋤鍬などの農機具まで用意していたこと伝わっています。携行の装備を見れば、渡来する人々の意図は明らかなのです。

 第四群から少し離れたところには、ひざまずく男性像と琴を膝に置く人物なども並べられていました。姫塚の埴輪列は、ほとんど原位置を保ったままに完存している、きわめて稀有な遺跡です。学術的な価値が非常に高いとともに、六世紀後半当時の埴輪表現の典型的な例を示すものとして貴重です。(109~110頁)

  統治について

千葉県は、当時、武射国造(注:社が射と表示されたいる)が統治していました。・・・

武射国造は、大和朝においては最高の地位を占める臣というカバネつまり称号を有するほどの有力者でしたが、六世紀前半までは目立った古墳は築造していなかったことが分かっています。大規模な古墳の築造が始まったのは六世紀後半のことで、この時期を境に大規模な古墳が急速に築造されるようになりました。

・武射とは、もちろん、後の「武蔵」のことです。姫塚および殿塚を含む芝山古墳群は、後に「武蔵国」と呼ばれる統治領域の中にあります。つまり、武蔵と呼ばれる地域には、こうした大陸系の人々、ユダヤ系の人々が多くいたということを姫塚が示しているということになります。・・・特に重要なのは、馬を使ってやってきた人々です。つまり、騎人あるいは騎士と言ってもいい人たちの存在です。結論から言えば、ディアスポラとなったユダヤ人たちが、日本に継続的にやってきていた、ということです。

・一般的に民族離散や流浪の民などと解釈される「ディアスポラ」というユダヤ人の特性は、…長い歴史の中で醸成されたものです。・・・姫塚が造られたのは六世紀後半ですが、ユダヤ人たちがやってきたのは、もう少し前の六世紀初頭、あるいは五世紀末だと思われています。
(110~112頁)

歴史上に登場

・聖徳太子が六世紀後半から七世紀のはじめに登場します。聖徳太子を助けた側近として、秦河勝という存在が知られています。

 平安時代初期に成立した『上宮聖徳太子伝補閥記』によれば、秦河勝は、「物部守屋の追討戦(五八七年)に軍政人として従軍し、厩戸皇子を守護して守屋の首を斬るなどの活躍を果たし、秦氏の軍事力を上宮王家の私兵として献上した」人物です。秦氏は、すでに述べたように京都・太秦を本拠地として聖徳太子を助けました。

 秦河勝は、姫塚のユダヤ人埴輪が示す人々と連続した勢力の中のひとりとして考えられます。興味深いのは、聖徳太子について『古事記』『日本書紀』が記している「厩戸皇子」と言う名前でしょう。きわめてキリスト教的な、あるいはネストリウス派的な影響を暗示しているその背後には、秦河勝という存在があるということは間違いないことでしょう。

 これらのことが、文献だけでなく、東国からのメッセージ、つまり、ユダヤ人的人物埴輪という視覚的メッセージによって、より強固に説明されるのです。(115頁)

再度、前回と同じですが、ユダヤ人風の埴輪とユダヤ人教徒の比較写真を図4に示します。現代のユダヤ教徒の特徴と非常によく似ています。田中氏が述べているように、六世紀後半には多くのユダヤ人がこの地域に居住していた動かしがたい証拠であると思います。


図4 人物埴輪とユダヤ教徒 (57頁)

いよいよ私たちになじみ深い聖徳太子に繋がるのですから、古代史は謎めいていますが、明確な証拠となる人物埴輪の登場で、一挙に面白味が湧いてきます。以前から聖徳太子が厩戸皇子と呼ばれていたのか気にはなっていました。しかし、田中氏の見方も一つの推察としてこれからの進展を待ちたいと思います。  

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

コメントを残す

*